ナイトメア
 第一話 天使は剣を抜いて 1


 

 差し込んでくる強い陽射しから目を逸らして、レギア・ブライトは一つ欠伸をかみ殺した。
 すでに太陽は中天にかかり、昼の明るい光をエデルの街中に降らせている。銀貨一枚ほどで泊まれる宿とはいえ、そこに銅貨数枚と惜しみない愛想を上乗せしただけあって、広い二人部屋の窓からは街の景色を一望できた。
 すっきりと晴れた良い天気といい、窓から見下ろせる広場の景色といい、値段の割には申し分ない眺めだといえたが、寝不足の目には太陽の恵みが少々つらい。眉を寄せて目頭をもみつつ、レギアは窓辺から身を翻した。
 しっかりと鍛えられていながら、無駄な部分の一切ない均整の取れた体躯だった。短く切られた髪は、北寄りに位置するエデルではめずらしい艶やかな漆黒で、瞳も夜空を思わせる濃い紺碧。天井が低く見えそうなほどの長身を身軽に動かすと、レギアは嫌そうな眼差しを部屋の一角に放った。
「おい、モタモタしてっと先にメシ食いにいっちまうぞ?」
「……………行けばいいだろう、行けば。おれはお前と仲良く食事を取るような仲になった覚えはない」
 パシャリ、とかすかな水音を立てながら、青年は瓶に張った透明な水から顔を上げ、濡れてしまった前髪をぞんざいにかきあげた。
 毛先が襟足に浅くかかる細い髪は、陽の当たらない場所では淡い銀色のように見えたが、実際は木漏れ日を寄り集めたような白金色だ。それと同色の長い睫毛に、うっすらと紫がかった銀色の双眸。健康的に陽に焼けたレギアとは違い、それこそ抜けるように色素の薄い白皙の肌。
 唯一、左目を上下にまたぐように刻まれた漆黒の文様だけが、消えてしまうそうな淡さの中で強い存在感を醸し出していた。寝不足のためか不機嫌に細められた瞳も、無造作に布で顔をぬぐうさまも、少女趣味な画家が丹精込めて描いた天使のようだった。
 だが、その中身は儚くも淡くも弱々しくもなく、悪魔が腹を切ってわびるしかない程度には凶悪だ。それを知っているレギアは、壊れ物めいた美貌に何ら感銘を受けた様子もなく、寝台に立てかけてあった剣をひょいと手に取った。信じ難いほど巨大なそれを背に負い、慣れた動作でベルトを留めてしまうと、顔を洗い終えた相棒に向かって肩をすくめてみせる。
「仕方ねえだろ、二人でメシを食った方がなぜか安いんだからよ」
 そうじゃなきゃオレだって一人で食うっての、と真情を込めて毒づくレギアに、青年も立ち上がりながらそっけなく頷いた。
「『二人以上で食事代割引!』とかいう、あの意味不明な謳い文句か。金が浮くのはありがたいが、朝からお前といっしょに食事する苦痛とどっちを取るべきか、そこが激しく問題だな」
「朝っつーか今は昼な」
「黙れ。おれがさっき起きたんだからおれの中では今が朝だ」
 当然のことのように言い捨て、青年は椅子の背もたれから上着を手に取ると、それさえも優雅な動作で袖を通した。その拍子にシャラリと音が響き、青年の首にかけられている鎖が鈍く輝く。短剣を模した小さな細工物の、めずらしいが美しい首飾りだった。
「……………あー、眠い。ものすごく眠い」
 手早く支度を整えながら、青年は眉を寄せて小さく欠伸を漏らした。
「オレも眠い、っていうかウゼェ。昨日はようやく宿に泊まれたと思ったら、寝に入ったところであの騒ぎだろ。ったく、やってらんねえっての」
「まったくだ。そうでなくても最近雑魚が増えて苛立ってるってのに………」
 昨夜の騒ぎを思い出したのか、青年はきつく眉をしかめたままで舌打ちした。
 だが、そこでふと気を取り直したように表情を改めると、胸元で揺れる短剣に指を滑らせて薄く微笑した。無邪気な天使の笑顔に、限りなく打算的鋭さを強く滲ませて。
「ま、それも金稼ぎにはなるけどな」
「相っ変わらず金にはがめついな、リィ」
「当たり前だろう、レギア」
 そうでなきゃこんな場所にいるわけない、と簡単に呟いて、リィと呼ばれた青年……リーシャ・ラーグナーは、朝食兼昼食を取るために部屋の扉を押し開けた。隣に並ぶわけでもなく、レギアも自然な速度で後に続く。それを見返りもせずに、リーシャは唇の端を吊り上げたままで小さく呟いた。
「もちろん、面倒ごとはないに越したことはないけどな」
 不敵な微笑を滲ませた涼しげな声と、バタンと扉が閉められる音だけが、誰もいない廊下にやけに大きく響いた。


 食堂になっている宿屋の一階は、やや遅めの昼食を取ろうとする人、あるいは昼間から酒を飲もうとする暇人たちでごった返し、まず盛況といっていい様相を呈していた。
「やっぱ混みあってんな。時間が時間だし、しょうがねえって言えばしょうがねえけど」
「…………全員蹴り倒して席を空けさせるか」
「やめとけ。一般人がお前に蹴られたら、たぶん物理的にあっさり死ぬから」
 この上なく物騒を会話を交わしつつ、リーシャとレギアは二階と一階をつなぐ階段を下り、一続きになっている食堂に足を踏み入れた。
 その会話が聞こえたわけではないだろうが、いくつかの視線が二人に集中し、そのどれもが驚愕と感嘆に見開かれる。この辺りではめずらしい黒髪の偉丈夫と、透きとおるような色彩を持つ美貌の青年の二人連れだ。目立つなという方が無理で、気がつけば客の半分以上が二人に注目し、ひそひそと熱のこもったささやきがいくつも飛び交っていた。
 だが、いい意味でも悪い意味でも目立つことに慣れている二人に、その程度の注目が堪えるはずもない。空いている椅子と卓と強引に引き寄せ、すばらしい速度でそこに腰を落ち着けてしまった。
「多少値が張っても、次はもう少し高い宿に泊まるか。部屋はまあ……レギアと相部屋でも紙一重で我慢できるとして、こういうガヤガヤした空気はうっとうしい」
「部屋に境界線まで引いといて『紙一重』かよ、てめぇ」
「当然だろう、レギア? 愛くるしい女ならともかく、お前みたいなむさ苦しい男と相部屋で喜んだら変態だ」
 しごく真面目に返された言葉に、レギアも「そりゃそうだ」と小さく頷いた。二人で組んで『仕事』をするようになってから二年ほど経つが、破局にいたるほど仲が悪いわけではなく、胸襟を開いて語り合うほど仲が良いわけでもないという、微妙な距離の関係を続けてきたのだ。
 それで会話は終了となり、リーシャは軽く手を上げて給仕の少女を呼んだ。
「…………あっ、はい、ただいま!」
 卓の間を忙しく動き回っていた少女が、それに気づいて勢いよく顔を上げた。長い金髪をおさげにし、耳の横に花の形の髪飾りをつけた、笑顔の愛らしい娘である。パタパタと小走りに二人の元へ駆け寄りながら、少女の顔が営業用のものではない笑みに輝いた。
「おはようございます、お二人とも! …………あの、昨日はどうもありがとうございました!」
「あー別にいいって。それより、昨日はよく眠れたか、シャリス?」
「はいっ」
 愛想良く紺碧の瞳を細めたレギアに、シャリスは頬を染めながら大きく頷いた。
 昨夜遅く、すでに夜も更けようかという頃だった。『主』を持たず、狂気に蝕まれて暴走した『虚構の眷族(きょこうのけんぞく)』が、明かりと喧騒に引かれてこの宿屋に押し入ってきたのは。たまたまそこに宿泊していたリーシャとレギアが、シャリスの叫びに気づいて部屋を飛び出し、人々を守りながらそれを退治してのけたのである。
 たとえその善行が、睡眠を妨害した『虚構の眷族』への怒りの産物だったとしても、シャリスの目から見れば二人は英雄だった。
「本当に何てお礼をしたらいいか………あ、知らなかったんですけど、お二人とも、『刻印の保持者』だったんですね! リーシャさんのそれも、てっきり刺青か何かだと思ってたんですけど、でも、本物の保持者に会えるなんてすごいことですよね! エデルはやっぱり田舎ですし、都会の方にいかないと討伐者(とうばつしゃ)とか、緋月の守護者(ひげつのしゅごしゃ)に会うこともほとんどなくて……あの、刻印の保持者はやっぱりすごく強いんですねっ、私感動しちゃって………っ」
「シャリス、シャリス」
 話しているうちに感情が高ぶってきたのか、小さな手を握り締めて瞳を潤ませるシャリスに、レギアは苦笑しながら人差し指を口元に寄せて見せた。声を抑えるように、という仕草に気づいて、シャリスは一瞬で頬を真っ赤に染める。
「あっ、すみません、私ったら一人で興奮して……」
「いや、それは別にいいんだ。でもシャリス、『刻印の保持者』のことなんてよく知ってたな? こいつの悪目立ちする刻印を見ても、普通はそれが保持者のものだなんて気づかねえもんなんだけど?」
 レギアの態度は非常に優しく、穏やかだ。彼は美女、もしくは美少女限定の博愛主義者であったから、それも当然と言えば当然なのだが。少女らしい純粋さで頬を染めたまま、シャリスは嬉しそうに座ったままの二人を見下ろした。
「はい、私も知らなかったんですけど、教えて下さった人がいたんです」
「教えてくれた人?」
「そうです。リーシャさんの刻印を見て、あれはすごく強い刻印の保持者の証だから大丈夫だよ、って」
 シャリスの視線を受けて、我関せず、とばかりにあらぬ方を見ていたリーシャは、よく見なければ気づかない程度に眉を寄せた。
 左目をまたいで描かれた刻印。まっすぐな抜き身の剣を、翼を持った竜が抱き込むようにして絡みついているという、簡素でありながらどこか美しい文様だ。色素の薄い容貌の中、漆黒で描かれたそれはひどく目立つ。
 リーシャは一瞬だけ顔をしかめたが、すぐに柔らかな笑みに表情を溶かすと、組んだ両手の腕に顎を乗せるようにしてシャリスを見上げた。
「そうか、それはよかった。…………それで、シャリス? そろそろ注文を聞いて欲しいんだけど、構わないかな」
「――――――あ、もちろんです! すみません、また私ったら………っ」
 聖画の中の天使もかくや、という美貌に微笑みかけられ、シャリスは再び真っ赤になって手元の紙に目を落とした。横でレギアが「うげ」とはき捨てたことにも、その足の甲にリーシャの踵がめり込んだことにも気づかない。そのまま急いで二人分の注文を取ると、シャリスはペコリと頭を下げてから足早に駆け去っていった。
 それを笑顔で見送ってから、リーシャはすっと優しげな笑みを消し、横で足を押さえて悶絶している相棒に視線を向けた。
「で、どう思う、レギア?」
「てめ………っ、『虚構の眷属』を蹴り殺す脚力で人の足を踏んでおいて、なにしれっとしてやがんだコラ」
「うるさいな、黙って質問に答えろ。この辺りは竜の守護三国からも遠いし、『刻印の保持者』について一般人が知ってることなんてたかが知れてる。しかも、これを見て強い、と言い切れるヤツなんてそうはいないぞ? その辺についてお前はどう思う」
「……………そうだな。まあ、ちょっとかじった程度で知ったかぶりしてみただけ、っつー可能性もあるだろ? 虚構の眷族のことを知ってりゃ、刻印のことも聞きかじっててもおかしくないしな」
 足の甲をさすりながら首をひねったレギアに、リーシャはこれ見よがしな溜息を吐いた。
「お前の貧弱な脳にふさわしい、論理性も説得力もない意見だな。もう少し空気を読むことを覚えろ」
「………………ヤッベ、今すさまじいまでの殺意が沸いてきた。誰にって、今オレの隣でしゃあしゃあと空気吸ってる顔面詐欺師に」
 ぼそりと呟くと同時に、レギアは残像を残すような速度で首を仰け反らせた。そこを、ヒュンと鋭い音を立てて銀の煌きが走り抜けていく。一瞬で首から鎖を外し、自然な動作で相棒の首を狙ってみせた美貌の青年は、軽く短剣を受け止めてふわりと笑った。
「何か言ったか? よく聞こえなかったんだが」
「なんっつー物騒なヤツ――――あー何も言ってませんよ、わかったから刃物片手ににっこり凄むなって、迫力と労力の無駄遣いだろうが」
 心から嫌そうに顔をしかめつつ、レギアは相棒に向かって大きく片手を振った。
 そこでチラリと流れた紺碧の双眸が、何かに気づいたように小さく見張られた。表情はほとんど変えずに、目線だけでリーシャにその方向を示し、声を低める。
「おい、リィ」
 リーシャもその方向に視線を向け、わずかに秀麗な弧を描く眉を寄せた。薄く紫がかった銀の瞳に、真冬の月を思わせる冷たい光が強く閃く。やはり表情には出さないまま、まとう空気が音もなくその硬度を増した。
「ふん、なるほど」
 木漏れ日の色をした髪をゆるく揺らして、リーシャは冷ややかに呟いた。
「どうやら、ここにもう一泊することになりそうだな。レギア」
「ああ、ま、しょうがねえだろ。それはオレたちの『仕事』だしな」
 二人の鋭い視線の先では、お盆を抱きしめるようにして立っているシャリスと、隅の席に一人で座っている若い青年が、時折楽しげに声を上げながら談笑していた。ずいぶんと親しげな様子で、シャリスも仕事を忘れたように笑い声を立てている。それだけならば微笑ましい光景だったが、二人は見かけの穏やかさに騙されることなく、しっかりと『それ』に気づいていた。
 青年の赤みがかった茶色の瞳が、時折光を反射して『紅』に輝くという、その事実が示すものに。






    



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