ナイトメア
 第四話 子守唄を、弔いの雨に 4


 


 一瞬だけ静寂が舞い降りた裏通りに、耳をつんざく轟音が響き渡った。
 煉瓦の破片があっけなく吹き飛ばされ、水音を立てながら石畳の上に落下する。それを漆黒の戦靴で踏みにじり、底光りする紅の瞳で周囲を見渡すと、男は唇の端を微笑の形につり上げた。
「やはり良い腕だ。そして良い判断だ」
 聞く者のいない呟きが大気を揺らす。男の手の中で剣の輪郭が揺らぎ、蜃気楼のようにあっけなく霧散して消えた。
 まだ荒削りだが、信じがたいほどの戦闘能力を持った二人だった。『同調』もなしに男の斬撃を受け止め、大剣を振るって反撃すらしてきた前衛の剣士に、冷静な判断で隙をつき、相棒と共にこの場から撤退してみせた後衛の青年。高位の眷族に守護されているとはいえ、ただの人間にここまで隙を見せたのは初めてだった。男は『男爵位』を持つ虚構の眷族なのだから。
「油断していては我とて食われるやもしれぬな。……無論、あなたの命を遂行するまでは決して死なぬし、虚構の界にも帰らぬと誓ったが」
 独白めいた言葉に答えるように、霧雨にけむる空間が音も立てずに砕けた。その割れ目から別の景色が覗く。
「でも、君ならあの二人にだって勝てるだろう、ヴィー?」
「あなたがそう望むなら。わが主」
「もちろん、私の望みはいつだって一つだ」
 空間の割れ目を押し開くようにして、豪奢なブーツが石畳の上に降り立った。金色の髪に碧の瞳、白を基調とした裾の長い衣服、左手にだけ嵌められたいくつも指輪など、見るからに貴族然とした青年が振り返った男を見据える。楽しげに細められた碧眼を見下ろし、男は恭しい動作でその場に跪いた。
 青年の名はレヴィン・エル・レイスバーグ。ラジステルが誇る王下評議会の高等参事官であり、男の主であり、彼にこの襲撃を命じた張本人であった。
「でも、結構意外だね。この場で片がつくかと思ったのに、ヴィーが取り逃がすなんて」
「面目ない」
「ホントだよ、しっかりしてよね、仮にも虚構の眷族の『男爵』のくせに」
 ふんと傲慢な表情で鼻を鳴らし、レヴィンは額にかかる金髪をかき上げた。今だ振り続ける霧雨にもかかわらず、長く伸ばされたそれは指の間からさらさらと零れていく。男が張った結界の効果だ。
「まあ、仕方がないといえば仕方ないか。なにせ『杯』の聖皇国グランデュエルの四大守護騎士団、『十字架』の騎士団長レギア・ブライトと、あの『未明の街』エア・ラグナ出身のリーシャ・ラーグナーだからね。……特にリーシャ・ラーグナーの方。いくらかかってたっけ? 懸賞金」
 ちらりと向けられた碧の瞳に、男は黙って右手を宙にかざした。手の上で空間が揺れ、端の黄ばんだ紙が一枚舞い落ちてくる。差し出されたそれに視線を落とし、滲んだインクが読みづらい、とばかりに眉を寄せると、レヴィンは腰に手を当てて軽く頷いた。
「……あぁ、そういえば『屍天使』(してんし)って言われてたっけ。二年前に懸賞金が最高額に達して、以後ぱったりと姿を見せなくなったエア・ラグナの暗殺者。『緋の王』(あけのおう)の後継者とまで言われて、竜の守護三国でも第一級警戒対象者に指定されてたけど。…………名を聞かなくなったから死んだかと思ってたのに、あの噂は本当だったんだね」
「『屍天使』は竜の刻印持ち、すなわち至高位の加護を受けている刻印の保持者だ。死んでいれば虚構の界でも動きがある、生きているのは当然のことだろう」
「はいはい。で、それが『十字架』のレギア・ブライトと組んで、あろうことか討伐者になってる、と。いやだねぇ、私たちにとっては面倒くさいことこの上ない」
 男の手から古ぼけた紙を抜き取り、レヴィンは育ちの良さを伺わせる面差しをきつくしかめた。
 あまり質の良くない黄ばんだ紙は、どこにでもあるような賞金首の手配書だった。内容もひどく曖昧なもので、賞金首の『二つ名』と、エア・ラグナの住人であるということと、後姿に近い姿絵しか載せられていない。手配書として成り立つのか疑問に思うほどだったが、ほんのわずかに覗く横顔を見やり、レヴィンは納得したように頷いてみせた。
 光に透ける白金の髪も、薄紫に近い銀の瞳も、戦いを生業にしているとは思えないほど白い肌も、探したところでそうそう見つけられるものではないだろう。この稀有な美貌が何よりの手がかりだった。
「目立つね、髪の色も、目の色も。『屍天使』なんていう、少女趣味な二つ名がついたのもわかる気がするよ」
「我らが人間に惹かれる要素は様々だ。美しさ、強さ、高潔さを好むモノもいれば、狂気や憎悪、残忍さこそを愛するモノもいる。……おそらく、屍天使を加護する方は美しさと強さに惹かれたのだろう。屍天使の美しさも、十字架の騎士の強靭さも、『至高位』に属するあの方々が好みそうなものであるゆえ」
 淡々とした口調で語る自らの守り手に、レヴィンは神経質な動作で眉を寄せた。
「まあ、そんなことはどうでもいいんだよ。ようは君が負けなければいいんだから。そうだろう、ヴィー?」
「無論だ。すべてはわが主の望みのままに」
「いい答えだね、ヴィー。いいやヴェルガー。私を守護する虚構の眷族」
 不機嫌な表情をあっさりと消し去り、レヴィンは喉の奥でくすくすと笑い声を立てた。無言で佇んでいる男に背を向け、手にした手配書を片手で握り潰すと、迷いのない足取りで雨の中を進み始める。ヴェルガー、と呼ばれた男もすぐ後に従い、結界によって降り続ける雨をさえぎった。
 それに礼を言うわけでもなく、レヴィンは丸めた紙を無造作に放り投げた。濡れた石畳に落下する寸前、紙屑は何かに押し潰されたようにひしゃげ、音もなく空間の狭間へ吸い出されていく。見えない存在に飲み込まれたように。初めから何も存在していなかったように。
「屍を作り出す背徳の天使に、十字架を負う異端の騎士か。ずいぶんと配役に凝ってくれたようだけど、陛下の思うとおりにはさせないよ。…………『刻印の保持者』ですらない者が、このラジステルを守りきれるはずがないんだから」
 一人言に近しいレヴィンの言葉に、ヴェルガーは短い答えを返しただけだった。
「思うように行動すればいい、わが主。我は、我の持ち得るすべてを持ってそれを叶えよう」




 ただでさえ薄暗かった周囲に闇が垂れ込め、街灯が白色の明かりを灯し始める頃、ラジステルの地方都市はようやく降りしきる雨から解放された。
 窓の外をちらりと見やり、夜空に月が出ていないのを確かめると、リーシャは大袈裟な動作で溜息を吐いた。すぐ横でレギアも黒髪をかき回す。いつの間に合流したのか、真っ白なねずみが金属の羽根をばたつかせ、二人を元気づけるようにピィピィと鳴いた。
「…………つーか、くそ面倒くせぇことになった気がするのはオレだけか? シザーの野郎はこれを狙ってやがったのか?」
「そうだろうな。何を企んでるのか知らないが、今回の仕事があの『男爵』とレイスバーグ絡みなのは間違いなさそうだ。……あの年齢詐称の破戒坊主、いつか足の先から刻み殺して鍋の具にしてやる」
「誰か食うんだよ、そんな食った瞬間に口腔から溶解しそうなもん」
「ライア」
 リーシャがしれっとして口にしたのは、『杯』の聖皇国グランデュエルを統べる聖皇、フォール・グランデュエル・ライア・シュトラーゼの個人名だった。間違いなく不敬罪に問われる台詞だが、レギアも涼しい表情で軽く頷く。
「ま、妥当なところだろうよ」
「当然だな」
 敬意の欠片も見られない口調で言い切り、リーシャは壁際の寝台に腰を下ろした。粗末な木の足がぎしりと軋む。
 もともと泊まっていた宿を避け、暗くなる前に別の宿屋に駆け込んだのは、レイスバーグに居場所を突き止められるのを防ぐためだった。結界で気配を消してあったとはいえ、一箇所に留まるよりは移動した方が見つかりにくい。前の部屋に直接飛び、荷物を持ってそのまま出てきたため、前金以外の勘定は当然のように踏み倒してきたのだが、二人はそれを気に病むほどしおらしい性格をしていなかった。
「なんて質の悪い寝台だ。……まあ、宿の質云々にこだわってる暇がなかったわけだし、仕方ないといえば仕方ないがな」
「部屋も狭いしな。くそ、こんな狭い部屋でリィと二人っきりかよ。あまりにも可哀想すぎるな、オレが」
「まったくだ、ちょっと哀れすぎて泣けてくるな。おれが」
 嫌そうな顔で低く吐き捨て、リーシャは白金色の髪を無造作にかき上げた。白いシャツに映えて淡い金色が揺れる。
 リーシャとレギアがまとっているのは、街の店で購入した真新しい上下の服だった。リーシャの服は襟元がすっきりと開いた白のシャツ、レギアのそれは立て襟のついた紺の上着で、二人とも光沢を消した黒のズボンを履いている。濡れた服の代わりに急遽買い求めたものだ。
 薄手の柔らかな生地が心もとない、とばかりに眉を寄せると、リーシャはもう一度窓の外へ視線を向けた。
「レティに新しく結界を張ってもらったが、隠しきれるかは微妙なところだろうな。レティの方が高位の眷族とはいえ、ここはラジステルだ。細かい地理から何から、相手の持ってる情報はおれたちとは比べ物にならないだろうしな」
「めんどくせぇな。どうせならこっちから乗り込むか?」
「一人で行け。それでお前が惨殺でもされたらむせび泣いてやるよ。もちろん嬉し泣きで」
「うわヤッベ、むしろオレがテメェを殺してぇ」
 うんざりした表情で小さく呟き、レギアはまとわりついてくるピュイを指で弾いた。抗議するように鳴くねずみを乱暴に撫で、リーシャの向かい側にぼすりと座り込む。
「で、どうなんだ? はっきり言って『召喚』なしに戦える相手じゃねぇだろ。男爵は」
「そうだな。いざとなったら『呼ぶ』しかないだろ。……まあ、正直言って疲れるからやりたくはないがな。なぁ、レティ?」
 リーシャの細い指が刻印に触れる。剣に絡みつく漆黒の竜、という美しい意匠の刻印が、それに答えるようにして淡く光を放った。
「ま、オレがティーエを呼ぶよりはそっちのが早ぇだろ。向こうも来たがってんじゃねぇの?」
「それはそっちも同じだろうが」
 二人ともかなり過保護だからな、と呆れたように呟き、美貌の青年は腰かけた寝台に上体を倒した。白金色の髪がさらさらと踊る。
「どうでもいいが、おれはいい加減疲れた。寝る」
「緊張感のねぇヤツ」
「世界中の誰に言われようと、おれの目の前にいる馬鹿にだけは言われたくない台詞だな」
 いつも通りのひややかな口調で言い捨てて、リーシャは薄く紫がかった銀の瞳を閉じた。虚構の眷族と『同調』し続けていたせいか、立て続けに刺客や男爵と戦ったせいか、あっという間に規則正しい寝息が聞こえ始める。たくましい肩を一つすくめると、レギアはカーテンを引くために寝台から立ち上がった。
「………っておい」
 さして大きくもない窓辺に近づき、カーテンをまとめてあった紐を解いたところで、レギアは嫌な事実に思い至って動きを止めた。
「結界の維持と見張りはオレにやれってか?」
 やっぱこいつ殺す、という憎々しげな呟きに、リーシャの横で丸まったピュイが愛らしく首を傾げた。






    


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