4 光の生まれる都へ


 


 そこは果てのない、青く透ける漆黒の闇に閉ざされた場所だった。
 煌びやかに揺らめき、黒い闇を青く照らしながら銀色の星が降り注いでいく。星はやがて闇の彼方へと消えていき、また新たな輝きが天空から生まれ落ちる。まるで機械仕掛けの照明装置のように。
 遥かな時を閲する空間は、だが決して何もない場所ではなかった。地面と呼べるものが存在しない青い世界に、仄かな光をまとった白い扉がそびえたっているのだ。
 精緻な細工の施されたそれは、確かに両開きになっている扉だった。だが、その扉に続いているはずの建物がない。それだけでは何の役目も果たせないだろうに、扉は表にも裏にも何もない空間を広げるだけで、静かに輝きながら闇の中に佇んでいた。
 寄りかかるわけでもなく、その隣に立ち続ける存在と共に。
「どうやら」
 零された声音は、男とも女ともつかない、ただ透明な印象を与える響きを持っていた。
 静謐だけが降り積もる空間に紡がれた声は、どこか風に似た現象を生み出していった。足元まで覆う闇色の髪がかすかに揺れ、銀色の星に触れてきらきらと輝く。それを髪と同じ色の瞳で見つめながら、その存在は赤い唇をくすりと綻ばせた。
 押さえきれない歓喜を秘めた、ぞっとするほど妖艶な美しさを宿した表情で。
「鍵は無事に、呼び招く者の手に渡ったようです。王よ。機械仕掛けの沃野から、餓えた美しき荒野へと。かつて、確かに貴方が愛した楽土の遺産に」
 そうささやいた存在は、扉の『番人』と呼ばれていた。
 名前がないのではない。その名を呼ぶ資格を持つ者が、番人の前には存在していないというだけだ。そうだというのに、番人の言葉は遠い誰かへと向けられていた。
 うっとりと細められた瞳にあるのは、その誰かに捧げる至高の尊崇。憧憬と畏怖と、あるいは恋情とさえ言えるような思いだった。
「永久の仕掛けのごとくに、我を慟哭と渇望の叶え手として縛りながら、それさえも言い知れぬ歓喜となされてしまうなど。貴方は罪深き御方であらせられる。そして何より、我はその罪さえ切望してしまう愚者にございますれば」
 そっと差し伸べられた白い手に、銀色の星が一つ触れ、そのまま吸い込まれるように薄れて消えた。
 何もなくなった空間をそれでも握り締め、番人は白い扉へと闇の瞳を向ける。繰り返される大乱と、その度に響き渡る強い願いを叶える者として。それこそを望んだ王の僕として。
 番人は扉を見つめながら、静かにささやいた。
「王将のやどりに、集うは散り放たれた鍵なれば。輝き、響けよ、祈り、乞いのみて。汝は宵闇を曙に、混迷を統一に、終局を黎明に変えゆく者」
 その響きは、御使いが何者かに捧げる絶対の神託にも似ていた。
 それほど荘厳で、敬虔な言葉だった。
「なれば、祀ろわぬ荒野に顕現せよ。歴史の鍵を呼び覚ませ。四玉の王の名の下に」
 それが祝詞と呼ばれる言葉だと知る者は、今の時代にはもう残ってはいない。ただ四人の存在を除いては。
 涼やかな声で祝詞を歌い、番人は柔らかく双眸を細めた。
 先の大乱から七百七十七の時が移ろった、今生の戦に思いを馳せながら。鍵を得たといえども、必ずや覇者たるわけではないことを、おそらくは誰よりもよく知りながら。
 それでも、番人は祈るのだ。我が王よ、という、限りない思慕を込めたささやきを放って。
「レイリさま」
 その声を聞く者は誰一人としてなく、それでも扉は淡く白く輝いていた。
 支配を司る、美しき玉たちにも愛された者の名に、世界が至上の喜びを歌い上げる中で。白い輝きは美しく、銀の星と共に踊り続けていた。




「――――開門! ライザード家当主カイゼル・ジェスティ様がお帰りになられた。開門、開門!!」
 先頭を走っていた騎士たちが、馬上から壮麗な門に向かって声を張り上げた。
 それに合わせるように、鉄板の張られた木の門が中からゆっくりと開かれていった。それも無骨なものではなく、実に豪奢な装飾のなされた門だ。開かれた門の横に騎士たちが馬を寄せ、そうしてできた道を当然のように黒馬に乗ったカイゼルが進んでいった。
 紫苑は懸命にその様子を観察していたが、カイゼルが門をくぐって手綱を絞った時には、すでに半死半生の状況にまで追い込まれていた。
 太陽はすでに昼間の明るさから夕陽の色へ衣を変え、西の寝台で眠りにつく準備をしていた。つまり、あれから半日近く馬の上で揺られていたのだ。車とは比べものにならない揺れと、未だかつて経験したことのない長時間の乗馬に、紫苑の三半規管と体は悲鳴を上げっぱなしだった。あと一時間でも馬上にいたら死んだかもしれない。紫苑は至極まじめにそう思った。
「降りろ、シオン。いつまで馬にへばりついてるつもりだ?」
 すでに下馬しているカイゼルが、ぐったりと馬の首にもたれかかっている紫苑に無情な言葉をかけた。そこにはやはり思いやりの欠片も見られない。それでも『拾い物』である紫苑に、それに対する不平不満を述べるような権利はなかった。
「……は」
 はい、と答えながら、紫苑は鐙に足をかけて地面に下りようとした。ぐらぐらする視界を必死に保ちながら。
 だが、紫苑の足は彼の意思をすっぱりと裏切った。
「うわっ……」
 鐙に下ろしたはずの足が綺麗に空を踏み、完全に馬に酔っていた紫苑は思いきり体勢を崩した。それで紫苑を責めるのは酷というものだろう。半日もの乗馬に耐えただけで、一般的な高校生としては賞賛されてしかるべきなのだから。
 だが、カイゼルにそんな優しさがあるはずもなく、落馬しかけた紫苑は無造作に襟首を掴まれて受け止められた。
「馬鹿か、お前は? いちいち鈍くさいことするな。鬱陶しいヤツだな」
「あ、も、申し訳ありません……っ」
「しっかり立て。立ったらとっととついて来い」
 紫苑を地面に立たせて手を離し、カイゼルは緋色のマントを翻して歩き始めた。その姿には、彼のような疲労の様子などわずかにも見られない。堂々とした後姿を見つめ、紫苑も慌てて石畳の上に足を踏み出した。もたもたしていてはまた怒られてしまうからだ。
 そこは呆れるほど広々とした屋敷だった。
 門をくぐった先には、石畳の道が屋敷の入り口まで長く続いていた。その途中の円形を描いた広場には、どこかカイゼルに似た面差し石像が剣を持った姿で鎮座し、鋭い視線で紫苑を睥睨している。おそらくは祖先の像か何かだろう、と紫苑は思った。
 その屋敷の領地内や、関所を通った後に見たの帝都の様子も、紫苑にとっては信じられないような光景だった。
 炎のような熱気を感じさせる明かりではなく、かといって白熱灯のように無機質な光ではない、透き通った淡い光が街中に溢れていたのだ。それは今目の前にある石畳の道も同様で、昼間ほど明るくはなくとも、視界の確保に困らない程度の明かりで照らされていた。
 光に満ち溢れた都。それが、エルカベル帝国の帝都エリダという街に対する紫苑の印象だった。
「疲れましたか?」
 すぐ後ろで聞こえた優しい声に、周囲を見回していた紫苑は弾かれたように振り返った。
「セスティアル様」
「大丈夫ですか、シオン? ああ、顔色が優れませんね。やはり、馬に乗れない人に長時間の乗馬はつらかったようでしょう」
 ふぅ、とわざとらしく溜息をついて、セスティアルは前を歩くカイゼルに眼差しを向けた。とたんに鋭い深青の瞳が見返ってきて、自分が見られたわけでもないのに紫苑は体をすくませる。だが美貌の青年はどこ吹く風だ。
「何かいいたいことがあるなら言ったらどうだ、セス?」
「いえ、我が君。ただシオンは疲れているようですから、今日はもう休ませてあげて下さいませ、と進言したかっただけで」
「何だ、そんなにそれが気に入ったのか?」
「ええ、だってすごく可愛いじゃないですか」
 ふふふ、と首を傾げるセスティアルに、カイゼルも楽しげな微笑を浮かべていた。間に挟まれた紫苑は小さくなることしかできない。何故、この人たちの会話はこうも外野の方がひやひやするのか、と思いながら。
 縮こまっている紫苑をちらりと一瞥すると、カイゼルはふん、と軽く唇の端で笑ってみせた。
「まあいい、こいつに部屋をあてがってやれ。詳しく事情を聞いた後、明日以降処遇を決める」
「御意」
 カイゼルとセスティアルの会話を聞いて、紫苑は思わず安堵の息をついた。これ以上は立っているだけでも限界だった。そもそも、紫苑は一日の学校生活を終えた後にこんな場所につれて来られ、野盗に襲われ、虐殺の現場を目撃し、半日の乗馬を経験させられたのである。途中で意識を失わなかっただけでも上出来というものだろう。
 ほっとした表情を作った紫苑に、セスティアルは良かったですね、と優しく微笑みかけてくれた。紫苑にはそれが天使の微笑に見える。そうすると、さしずめカイゼルは強大な力を持つ大魔王だろう。
 聞かれたら打ち首にされそうなことを考えつつ、紫苑はやはり中から恭しく開かれた屋敷の扉をくぐった。
 今までの経験から、ずらりと並んだ家僕たちがお帰りなさいませ、と唱和して頭を下げる光景を想像していたのだが、意外にもそこには最低限の人間しかいなかった。とはいっても、その内装の豪奢さを損なう原因にはなっていない。立ち止まりこそはしなかったものの、紫苑はあまりのことに大きく碧の瞳を見開いた。
 玄関ホールだけで、一般的な日本の住居がまるまる一つ収まってしまうだろう。建築様式や装飾、天井画などが描かれているところは、どことなくローマの宮殿を思い起こさせた。天井は信じられないほど高く、ホールの面積は考えられないほど広く、柱や壁際に飾られた石像は荘厳の一言に尽きる。門をくぐった時にも思ったことだが、カイゼルの身分の高さを思い知るには充分すぎる居住だった。
 今更ながら、自分はとんでもない人に拾われたらしい、と悟って紫苑は青くなった。そして、ここまで立派な屋敷を持つ人が生活している『未開の地』があるはずがない、という事実にも。
 壮年の男に緋色のマントを預けたカイゼルは、深刻な顔で沈黙している紫苑に軽く顔をしかめた。ライザード家は帝国でも一際豪奢な屋敷を持つが、驚愕している紫苑の反応を見る限り、やはり貴族階級に連なる者には見えなかった。だが平民に見える、というわけでもない。奴隷階級などもっての他だった。
 本当に、奇妙な印象を与える少年だった。
「おい、シオン」
「はい」
 今度は沈黙をはさむことなく、びくりと体を震わせるわけでもなく、紫苑はカイゼルに答えることができた。懸命に彼の様子を伺っていたためもある。その様子にややおかしそうに眉を上げると、カイゼルは屋敷にはそぐわない、だが浮き上がっているわけでもない少年の姿を見下ろした。
「とりあえずはここに置いてやるが、はっきり言ってエルカベルじゃ誘拐なんざ珍しくも何ともない」
「……はい」
「お前を攫ったヤツが、何を思ってお前をあんなところに捨てて行ったのかは知らないがな。そういう場合、大概奴隷階級に落とされるか、見目良いガキなら娼館にでも売られるか、だ」
「……っ」
 さっと素直に瞳を揺らした紫苑が、カイゼルは面白くてならなかった。セスティアルはたしなめるような目で見てくるが、口元が意地の悪い笑みに綻ぶのを止めようとはしない。もう少し苛めてやろうか、という思いが脳裏を掠めたが、憐憫の情が起こったというより面倒くささが勝ったため、断念した。
「いいか、シオン。お前が何かしら役に立つようなら、この屋敷の下働きとしてでも雇ってやらないこともない」
「…………え」
「お前をつれて来たのはそこそこ興味がひかれたからだ。俺の名前も、帝国のことも、あろうことか皇帝の名も知らないガキがこの世界にいるはずがないからな。その辺はあとで説明してもらうが」
 言いながら、カイゼルは紫苑の様子を興味を込めて観察していた。紫苑がただの少年ではない、ということに対しては、ほとんど確信に近いような印象を抱いている。馬に乗れないなどというのは問題外だが、教育すれば使えそうな少年だ。
 その言葉に、紫苑はこれ以上ないほど大きく瞳を見開いた。
 カイゼルの言葉が意外だったためもあるし、願ってもない申し出だったためもある。身分ある家柄の者に雇われれば、当面生活に困ることだけはないはずである。もはや、ここが『地球上の未開の地』ではないということを認めざるを得ない状況で、紫苑がしなければならないことは一つだった。生きるための手段を講じることだ。紫苑は懸命に頷いた。
「はい……はい! お願いいたします、どうかここに置いて下さい! 厨房での賄いだろうと掃除だろうと給仕だろうと、何でもいたしますから……」
 とっさにここまで言葉が出てくるのは、中学まで劇団に通っていた実績のなせるわざだった。八割がた演技ではない必死さを滲ませて、紫苑は祈るようにカイゼルを見上げた。
「何でも、か。大きく出たな?」
「はい、努力して覚えます。最初はお役に立てないかもしれませんが……それで、あの」
「あ?」
「あの……」
 そこまで言って、紫苑は迷うように視線をさまよわせた。後ろに控えていたセスティアルにも瞳を向けると、どうしました、と首を傾げてくる。
 今、一番聞かなければならないことだった。だが、それは一度聞いてしまえばもう後戻りはできない言葉でもあった。
 それでも、紫苑は決心したように一つ息を吸い込んだ。敵陣に突っ込んでいく武将のような表情を作り、ずっと尋ねたかった言葉を口の端に乗せる。
 運命を決める言葉を。
「――――ここは、太陽系第三惑星地球上の国、ですか?」
 最後の希望を託して告げられた言葉に、返されたのは一瞬の沈黙だった。
 そろそろ、とカイゼルの表情を伺うと、何とも言えない顔をして紫苑を見下ろしている。それだけで、紫苑が答えを悟るには充分すぎた。
 そして、運命はどこまでも紫苑に対して無情だった。
「……何だそれは?」
 やっぱり頭は大丈夫か、というカイゼルの言葉に、今度こそ紫苑は目の前が真っ暗になったのだった。
 






    



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