序 集え、強き者たちよ


 


 帝国の東に位置するシティン湖を通り、帝都エリダと海をつないでいるリズ運河は、中央大陸の中でも特に美しいと謳われる場所のひとつだった。
 透きとおった水の下には魚の影がゆらめき、岸辺は季節を問わず緑の絨毯におおわれ、吹き抜けていく風は運河の表面に音もなく小波を立てる。宝石を砕いたような煌きをたどっていけば、やがて清澄に澄み渡ったシティン湖に到達し、そこからいくつもの小川となって海へと流れ込んでいく。その美しい景色を指して、帝室お抱えの吟遊詩人が『青玉の大河、碧玉の湖、蒼玉と水晶の大いなる海』と歌ったのはあまりにも有名である。
 水上砦シャングレインは、そのリズ運河の直中に作られた難攻不落の要塞だった。ちょうど運河の真ん中あたりにそびえ建ち、その両側に柵のような形の外壁を従え、それによって水量を調節する『水門』の役割を果たしている。建物の作りは横に長く、中央の一棟だけが高く、外壁とつながった左右の部分は奥行きに乏しい。それだけなら『水上砦』という名で呼ばれるはずもないが、帝都の逆側に面した塀には縦長の小窓があり、一面びっしりと攻撃用の矢狭間(やざま)になっていた。有事にはここから矢を射かけ、水上から侵入しようとする敵を撃退するのである。
 その砦の執務室で、鋲を打ちつけただけの窓辺に座り、眼下に流れていく運河の煌きを臨みながら、一人の青年がゆったりとした速度で書物をめくっていた。
 広さだけは十分にあるが、砦の外観同様、飾り気や豪華さとはひたすら無縁な部屋だった。部屋にあるのは青年が座っている椅子に執務机、書類の山積みになった木の卓、そして壁沿いにぴたりと据えられたいくつもの本棚だけで、装飾品や目に楽しい家具の類は一つも置かれていない。壁に三日月を模した深紅の旗がかけられているものの、それ以外の部分はほとんどむき出しの岩肌で、部屋全体にひどく寒々しい印象をふりまいていた。
 だが、部屋の主はそれを気にした様子もなく、椅子の肘かけに頬杖をついてのんびりと欠伸をした。
 うなじで束ねられた長い黒髪と、宝石のよう、と表現するにはやや濃い紫の瞳を持つ、よく見ればそれなりに整った顔立ちの青年だった。ここがシャングレインの執務室である以上、この青年が水上の守りを任された騎士のはずだが、理知的な面差しは武人というよりも学者のそれに近い。それも強いていえば、というだけで、下手をすれば人の良い市井の青年にしか見えなかった。
「……おや」
 どこまでも穏やかな表情で呟き、青年は書物に落としていた視線を持ち上げた。
「お客さんか、めずらしいね」
 ゆったりした声に答えるようにして、殺風景な室内に銀色の光が巻き起こった。窓も扉もしっかりと締め切られているはずだが、舞い上がった光が動くはずのない大気をかき回し、青年の黒髪と紺色の騎士服をはためかせていく。青年が膝上に乗せていた書物を閉じ、書類に侵食された卓上へそれを放り投げたところで、銀光の中から細身の影が滑り出てきた。
 転移の魔術を用い、シャングレインに張られた結界を揺らしもせずに『出現』してのけたのは、夜空色をした髪と稀有な美貌を持つ魔術師だった。
「―――久しぶりですね、エダ」
 音楽的な響きを持った綺麗な声に、青年は頬杖を外しながらにこりと笑った。
「久しぶりだね、セスティアル。……レイターならではの訪問の仕方、ということは、正式な用で訪れたわけじゃないのかい?」
「その通りです。というか、私が正式な用で貴方に会いに来るわけないでしょう?」
 くすくすと耳に心地よい笑い声を立て、セスティアルは青みがかった銀の瞳をそっと細めた。エダ、と呼ばれた青年も笑みを深くし、木の椅子を軽く引いて立ち上がる。
「確かに。で、君直々のお出ましということは、帝都の方に何か動きがあったのかな」
「ええ。貴方が皇帝陛下に逆らってここに飛ばされてから、我が君のもとでは色々と面白い動きがありましたよ。貴方の情報網ならもっと細かくつかんでいるのでしょうが」
「飛ばされた、という台詞は心外だね。あの程度で大騒ぎする陛下……というより、その周囲を取り巻く重鎮どもの器が小さいんだよ。君主に必要なのは武勇でも金勘定のうまさでもない、国を動かしていく狡猾さと人を従える器の大きさなんだから」
 かけられた言葉の後半部分には答えず、青年はセスティアルを促して黒檀の執務机に歩み寄った。今まで座っていた椅子をセスティアルにすすめ、自分は重厚な机に寄りかかるようにして立つ。
「つまり、今の帝国には私を従えるだけの器がないんだよ。エルカベル帝国にとってはまことに残念な、そして我が友にとってはまことに幸福なことにね」
「否定はしませんよ。……ですが」
 礼を言ってからそれに座り、優雅な仕草で濃い紫の双眸を振り仰ぐと、セスティアルは戯れるように言葉を続けてみせた。銀青の双眸が悪戯めいた光を宿す。
「陛下直々の食事の誘いを断り、平民の女性と仲良く食卓を囲んでいた、というのはいくらなんでもあからさまでしたね。いくら貴方がレヴィアース家の当主で騎士団の軍師でも、バレたら大問題になることくらいわかるでしょうに」
「まあね。でもセスティアル、敬意もへったくれも持っていない中年男と食事するより、愛する女性と和やかな夕食をとりたい、と思うのは男として当然だろう? 私は自分の望みに忠実に行動したまでだよ。……まぁ、さすがにシャングレインの司令官に任ぜられるとは思わなかったけどね。よりにもよってこの私が」
 気さくな動作な肩をすくめた青年に、セスティアルはけむるような美貌を笑みにほころばせた。
「貴方は賢者ですが、ある意味ではとても貴ぶべき愚か者ですね。エディオ・グレイ・レヴィアース。帝国最高の頭脳を持つ軍師どの。私は貴方のそういうところがとても好きです」
「お褒めにあずかし光栄の至り。帝国の最高の魔術師、レイター・セスティアル・フィアラート。私も君の、信じがたいほど綺麗に笑いながらすっぱりと物を言うところがすごく好きだよ」
 軍師と魔術師は顔を見合わせ、ほぼ同時に楽しげな笑い声を立てた。
 エディオ・グレイ・レヴィアース。数多くの軍師を輩出してきたレヴィアース家の当主であり、エルカベル騎士団第一位階の騎士であり、カイゼル・ジェスティ・ライザードの幼馴染でもある彼は、その権力者を小馬鹿にした態度から帝国の重鎮たちに忌み嫌われていた。恐れられていた、と言い換えてもいい。それはカイゼルも同様だったが、彼が絶大な力を持って周囲をねじふせてしまうのに対し、エディオは話の通じない相手に関わるのを嫌っていた。だからこそさしたる弁明もせず、命じられるまま水上砦の司令官として帝都を出たのである。
「それで? そんな私のところに何の用件で来たんだい? ひょっとしてそろそろ左遷の命令が解けるのかな」
「そこはもう少し嬉しそうな顔でいうべきところですよ、エダ? ここでの生活が気に入ってしまったんですか?」
「何だ、本当に帰還命令が出たのか」
 冗談だったのに、と低く呟き、エディオがひどく嫌そうな顔で眉をひそめた。実に正直な軍師を見上げ、セスティアルは風がさざめくように淡く笑う。
「実際はまだですよ。ですが、近いうちに貴方が呼び戻されるのは確かです。……最近は外縁大陸にも目立った動きはありませんからね。皇帝陛下も、貴方ほど優秀な人材を遠ざけておく無駄に気づいたのではないですか?」
「というのが建前で、実際は?」
「実際のところはまだわかりません」
 やっぱり貴方との会話は好きですよ、と穏やかに続けて、セスティアルは鋲を打ちつけた窓に視線を向けた。煌きわたる水面をまぶしげに見やり、銀青の瞳をエディオに戻す。
「ですが、確かなことがひとつだけあります」
「何だい?」
「歴史は動き始めました」
 それはあっけないほど簡単に響いた言葉だった。エディオは濃紫の瞳を鋭く細め、問いかけるように美貌の魔術師を見下ろす。室内の空気が音もなく張り詰めたが、あえてそれを緩めるように微笑んでみせ、セスティアルは紫のマントを払って椅子から立ち上がった。
「歴史の駒はそろいつつあります。我が君と、我が君のもとに渡り来た一人の少年を中心に。それは皇帝、ヴァルロ・リア・ジス・レヴァーテニアも感じているのでしょう。だからこそ貴方を呼び戻し、あえて我が君のもとへ集わせようとしています。―――此度の革命の核となる、強きものたちを」
「…………」
「我が君の陣営には貴方が必要です、エダ。……半年前のトランジスタの反乱程度なら、私が軍師を努めても特に問題はないんですけどね」
 これからはそうもいきませんし、というセスティアルの言葉には、エディオにしかわからない重大な意味がこめられていた。まっすぐに向けられる眼差しを受け止め、帝国最高の軍師は口元に薄い微笑を浮かべる。玩具を前にした幼子のように。同時にすさまじい知略を秘めた策士のように。
「なるほど、色々と面白くなってきたようだね、セスティアル。私が留守にしている間に」
「ええ、エダ」
 帝国最高の軍師と、レイターの中でも最強と誉れ高い魔術師と。軍にあっては両雄と並び称され、門閥貴族には等しく忌避の目を向けられる二人の騎士は、よく似た仕草で楽しげに笑いあった。
 やがて世界を襲うだろう、歴史の激流を待ち焦がれるようにして。






    


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送