3 月の姫





 楽しげに密談している親子を見やり、シオンとシェラナは不思議そうな表情で顔を見合わせた。
 会話の内容は気になったが、瞳をすがめて笑っているカイゼルにも、ひどく嬉しそうな様子で頭を下げているフィオラにも、先ほどからしつこく肩を震わせているエディオにも、二人の疑問に答えてやろうという意識は存在していないらしい。聞かれて困るようなことなんてなさそうなのにな、と胸中にひとりごち、シェラナとそっくり同じ動作で首を傾げると、シオンは主君の方をうかがいながら小さく苦笑した。
「……何のお話をなさってるんでしょうね?」
「わかんない。けど、すごく楽しそう」
 父上様たち、と呟きながらくすぐったそうに笑い、シェラナは同意を求めるように侍従の少年を仰ぎ見た。
 単なる思い込みかもしれないが、もしカイゼルが何の前触れもなくこの屋敷を爆破したとしても、シェラナは神々の奇跡を目の当たりにした聖女のようにうっとりと笑うに違いない。あまりにも現実感のあふれる想像に動揺し、確かにカイゼル様は何をなさっても格好よくていらっしゃるけどっ、と間違ったことを考えながら頭を抱えるシオンに、金髪の少女はきょとんとした表情で瞳を瞬かせた。
「シオン? ……あ。あのね、シオンも仲間に入ってきていいよ? 私、ちゃんとここでお茶飲んで待ってるから」
 二秒ほど沈黙して言われた内容を吟味したあと、シオンはいえ、とあいまいな態度で首を振った。
「…………大丈夫です。お気持ちだけで」
「そうなの?」
「はい」
 言葉の内容はどこまでも的外れだったが、真剣な面持ちで見上げてくる少女は文句のつけようもなく愛らしかった。碧色の瞳をふわりと和ませ、シオンは苦笑になりきらない表情で淡く微笑する。
「シェラナ様はよろしいんですか? カイゼル様もフィオラ様も、シェラナ様でしたらちゃんと仲間に入れて下さると思いますよ」
「ううん。シオンと一緒がいいから、私はいいの」
「……僕と?」
「うん。父上様もフィオラもエダも大好きだけど、シオンと話してるのが一番楽しい。……父上様たちのところに行かなくていいなら、なにか用事ができるまでは一緒にお話しててね」
 誤解のしようがない好意の言葉に、シオンは純粋な喜びを覚えて大きく頷いた。もちろんです、というシオンの返事を受け、シェラナは嬉しくてたまらないというように柔らかく笑う。
 その場の空気が暖かくほころんだ瞬間、それを見計らったように鳥の羽音が響き、庭園を気ままに飛び回っていたアボロが友人のもとへ舞い戻ってきた。露台の手すりへ音もなく降り立ち、鷹揚な仕草で見事な色合いの羽を震わせる。
「アポロ!」
 空色の瞳をきらきらと輝かせ、シェラナは椅子から立ち上がってアポロへと手を伸ばした。羽をつけねをくすぐるように撫でてやると、アポロは猛禽類とは思えない穏やかさで黒い目を細める。シオンに好意を寄せている存在だからか、会うたびに何かしらの餌をくれる人間だからか、アポロは周囲が意外に思うほどカイゼルの子どもたちに懐いていた。
「アポロ、お帰り。空の散歩は楽しかった?」
「……あ、アポロ!!」
 親しみに満ちたシェラナの言葉に、明るく弾むフィオラの声がかぶさった。父親に向かって礼儀正しく頭を下げ、フィオラがぱたぱたと妹の隣に駆け寄ってくる。
「お帰り、アポロ。アポロも何か食べる? ……って言っても、母上様の作ったお菓子しかないけど」
「アポロはお菓子、嫌いかな」
「そうですね。あんまり好きじゃないかもしれません」
 アポロを撫でながら首をひねっているフィオラと、確認するように見上げてくるシェラナに笑いかけ、シオンは腰のベルトに下げられている布袋に手を伸ばした。中から干し肉の欠片を引っ張り出し、それを主君の子どもたちに手渡してやる。二対の瞳がぱっと輝いた。
「ありがとう」
 声をぴったり重ねて礼を言い、金髪の双子はちぎった干し肉をアポロの目の前に差し出した。
 鷹は本来猛々しい気性の持ち主だが、アポロは雛の頃から鷹匠によって十分に馴らされている。差し出された餌に飛びついたりも、くちばしで子どもたちの指をつついたりもせず、どこか上品な動作で目の前の干し肉をついばみ始めた。
 ふいにひんやりとした風が吹きぬけ、太陽にかかっていた薄い雲を吹き散らしていった。淡い光が石造りの露台に差し込み、まっすぐに流れ落ちるフィオラの髪と、ゆるやかに波打つシェラナのそれを金色に煌かせる。どちらも『金髪』と表現される色合いだが、フィオラの髪は豪奢な黄金色に近く、シェラナの髪はひそやかな白金色に近い。太陽と月の光のような、というありきたりな表現が脳裏をよぎり、シオンは胸を満たす感情のまま穏やかにほほえんだ。
 その感情に名前をつけることはできなかったが、じんわりと湧き上がってくる暖かさは不思議とシオンを満足させた。意図せずに浮かんだ微笑の意味も、胸のうちにある感情の理由もわからないままに。
「――――シオン」
 不思議な感慨にひたっていたシオンを、すっかり耳に馴染んだ美声が現実へと引き戻した。その一瞬で主君に向き直ることができたのは、侍従としての職業意識というより、骨の髄まで叩き込まれた服従精神が発揮されたゆえだろう。シェラナとフィオラに軽く頭を下げ、テーブルを迂回しながら慌てたように近づいてくるシオンに、カイゼルはひどくあっさりした動作で空になったティーカップを突き出してみせた。
 ここで意図がつかめずに首を傾げるようでは、闘神と呼ばれるカイゼル・ジェスティ・ライザードの侍従は務まらない。
「あ、はい、ただいま!」
 置きっぱなしになっていたティーポットに手を伸ばし、シオンは中の葉を一度捨てて新しいものに入れ替えた。お湯が入っているのは別のポットだが、魔術の効果がその熱を閉じ込めているため、たとえ長時間放置しておいても中身が冷めてしまうことはない。魔法瓶よりずっと便利だな、と口の中で呟きつつ、手慣れた仕草で新しいお茶を淹れると、シオンはどこまでも恭しく主君のカップに琥珀の液体を注ぎいれた。
「……カイゼル様、何かお食べになりますか? よろしければお取りしますが」
 カイゼルの世話をする従僕は数多く存在するが、給仕の仕事だけはシオンがそのほとんどを任されている。お茶を注ぐ際に用いる熱湯や、何かを切り分ける時に使うナイフなど、場合によっては凶器になり得るものを主君の傍近くで扱うからだ。普通は当主の身内に任される仕事なんだよ、とエディオに教えられて以来、シオンはカイゼルの給仕になみなみならぬ熱意をたぎらせ、今まで以上の意欲を持って仕事に取り組むようになっていた。もっとも、異様に嬉しそうな様子で給仕を始めた侍従の少年に、カイゼルは奇妙なものでも見るような一瞥を投げかけただけだったが。
 今もさらりとした口調でいらん、と答え、唇の端を持ち上げて笑みを作ると、カイゼルはエディオにも問いかけようとするシオンを目顔で押しとどめた。そのまま大貴族らしい挙措でカップを取り、中身を味わいながら当然のように話題を変える。
「シオン。じきに『薔薇の間』で開催される舞踏会は知っているな?」
「あ、はい。少し前に皇宮から招待状が届いてました。……そういえば、女官の方たちが仮縫いした衣装を合わせてほしいってカイゼル様を探してましたが」
 思い出したように続けられたシオンの言葉に、カイゼルはちらりと面倒くさそうな表情をよぎらせた。
 カイゼルは着飾ることに喜びを見いだす人間ではないが、仮にも帝国最高位と目される大貴族の当主である以上、普段と変わらない衣装で皇帝主催の舞踏会に足を運ぶわけにはいかない。恐らく、奇妙なほどに目を輝かせた女官たちがその実力を発揮し、ライザード家の若き当主を驚くほど立派に飾り立ててのけるのだろう。
 ちょっと楽しみかも、と内心で呟く侍従の少年に、主君である青年はどうでもよさそうな表情で目をすがめた。
「魔術でいくらでも姿くらい映せるだろう、俺はそこまで暇じゃないと言っておけ」
「はぁ……」
「そんなことはどうでもいいが、シオン。お前、踊りはできるか?」
「は?」
 目を丸くするシオンに構わず、カイゼルは実に愉快そうな表情で笑みを作った。
「舞踏会で踊れる程度の実力はあるか、と聞いたんだ。いちいち呆けるな」
「あ、えっと……あの」
「踊れるのか踊れないのか、どっちだ?」
「…………踊れません」
 というか嫌な予感がするんですけど僕の思い過ごしですかカイゼル様っ、と胸中で絶叫するシオンをよそに、カイゼルは楽しげな面持ちのままアポロとたわむれている息子に視線を投げた。フィオラが嬉しそうな様子で顔を上げ、感謝の意を込めてちょこんと一礼する。
「あの、カイゼル様……?」
「踊れんなら仕方ないな。適当に教師を見繕ってやるから格好だけはつくようにしろ。一月程度なら他の仕事との折り合いもつけられるだろう」
「……え?」
「衣装は簡単なもので構わないな? なら明日でにも女官のところに採寸に行ってこい。事情は俺から説明しておいてやる」
「……えっと」
「何だ? 何か問題があるなら言ってみろ」
 今なら聞いてやる、というカイゼルの慈悲に満ちた言葉は、シオンの聞き間違いでなければ『あくまでも聞くだけだがな』という続きが略されたものに違いなかった。
 もともと勝ち目など存在しない戦いだったが、このまま流されたらまずいという直感を無視することができず、シオンはなけなしの勇気を奮い起こして眼前の主君に問いかけた。あの、と。
「それは……その、僕も舞踏会に参加する、っていうこと、ですか?」
 それに対するカイゼルの答えは、今まで何を聞いてた、という呆れのこもった一言だった。
「さっきからそう言ってるだろうが」
「……ま、そういうことらしいから諦めた方がいいよ、シオン」
 手にしていたフォークを皿の上に戻し、慎ましく沈黙を守っていたエディオが輝くような笑顔で口をはさんだ。彼の前に置かれた皿があらかた空になっているところを見ると、今の今まで滅多に食べられないセレニア手製の菓子を味わうことに腐心していたらしい。
 弟子が必死に助けを求めていることに気づいたのか、エディオはひどく優雅な仕草で口元をぬぐい、そのまま流れるようにシオンに向かって親指を立ててみせた。
「グッドラック、シオン」
 今ので使い方あってたかいー、とにこやかに聞いてくる師に全身で脱力しつつ、シオンは一縷の望みをかけて主君の子どもたちに眼差しを向けた。
 フィオラはにっこりと笑いながらシオンに向かって手を振り、シェラナはきょとんとした表情で小さく首を傾げ、アポロはわれ関せずといった風情で見事な羽をつくろい始める。再びがっくりと脱力し、椅子に座ったままのカイゼルに向き直ると、シオンは小動物を思わせる眼差しで強大な主君の慈悲にすがった。
 だが、カイゼルの意識を種類によって分類した場合、『慈悲』と名のつく部分は間違いなく『慈愛』と共に『その他』の項目に投げ込まれる。その程度の分量しか持たないものにすがるなど、激流に呑まれた者が長さ数リート程度の藁に全体重をかけるようなものだった。
「特に問題はないな、シオン?」
「…………はい」
 笑みと共に告げられた主君の言葉に、シオンは諦めの境地で彼に許された唯一の返答を口にした。






    


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