13 紅蓮の月


 


 炎が噴き出す一室から身軽に飛び出し、嵐は廊下に手をついて体を一転させた。ヤベ、という緊張感に乏しい声が熱風を揺らす。
「……力の加減間違えたっぽい?」
 小火くらいで済ませるつもりだったのになー、とやる気のない口調で続け、嵐は勢いよく広がっていく炎にちらりと視線を向けた。
 『破壊』の力を持つ嵐にとって、建物の一部で巨大な爆発を起こし、あたり一面を火の海に変えるなど造作もないことだった。これで傷害と器物損害に放火が加わったことになるが、嵐は何の痛痒も感じていない表情で視線を外し、炎を背にして広い廊下を走り出す。
 叶家は持てる権力を存分に活用し、四兄弟が暴れ回ったという事実を揉み消そうとするだろう。たとえ一晩で屋敷が焼け落ち、私有地である山一つが吹っ飛んだとしても、新聞の隅にごく小さな記事が載って終わりになるはずだ。「都内の私有地で小火騒ぎ」と。
 叶が四兄弟の存在を隠そうとする限り、彼らがどれだけ常識離れした力を振るっても表沙汰になることはない。彼らの力が世間に知られることもない。それを理解しているからこそ、嵐は何のためらいもなく屋敷中を破壊し、襲いかかってくる警備員を払いのけ、全神経を研ぎ澄まして兄弟たちの気配を探った。
「―――あー、すっげー面倒かけちまった、後で兄貴たちと律に謝んなきゃなー……」
 呟きながら身を沈め、振るわれた警棒に空を切らせると、十分に体重を乗せた拳を相手の鳩尾に埋めた。熊のような大男はあっさりと目を剥き、呻き声を上げてその場に崩れ落ちる。それをハードルのように飛び越え、陸上選手もかくやという身のこなしで着地しながら、嵐は己の感覚が命じるままに廊下の角を曲がった。
 その瞬間のことだった。
「嵐……!!」
「嵐兄!!」
 何よりも誰よりも聞きなれた声が響き、嵐は足を止めて弾かれたように顔を上げた。琥珀色の髪を熱風になびかせた長男、橙色の双眸を黄金色に輝かせた四男、そして口元に安堵の微笑を浮かべた次男の姿を認め、嵐の体からすとんと力が抜ける。同時に体中の細胞が歓喜の声を上げてざわめき出した。魂の半分がようやく戻ってきた、と。
 そのまま大きく手を振り、兄弟たちの名前を呼びながら走り出そうとして、嵐は凍りついたようにその動きを止めた。
 雫が開けた穴から警備員の男が飛び出し、何事かをわめきながら警棒を振り回すのを、嵐の視界はひどくゆったりした映像として捉えていた。とっさに兄貴、と叫ぼうとするが、喉が何かにふさがれてしまったように声が出ない。蛍が肩を強打されてよろめき、繊細な容貌に隠し切れない苦痛の色が広がる。その瞬間、嵐の脳裏に過去の情景がフラッシュバックした。
『……何だって言うのよ』
 耳障りな金切り声。振り上げられた真っ白な手。兄たちによく似た美しい顔をゆがめ、和服の裾を乱してヒステリックな声を上げた年若い女性。
『気持ち悪い……っ、何だって言うの? なんでこんなモノが生まれるのよ、この家にっ、私の家にっ!』
 血の繋がった父親の妹。茅という名の綺麗な叔母。
『殺してしまえばいいのよ! 今ならまだ間に合うでしょ、殺してしまえば……!』
 そして何のためらいもなくかざされた、月明かりを弾いて輝くナイフの刃。
『あんたたちなんて死んでしまえば……っ!!』
 覚えているのはそれだけだった。
「―――――っ」
 やめろ、という低すぎる呟きは、すさまじい勢いで響いた轟音に紛れて消えた。
 嵐が右の拳を横向きに振るい、崖に張り出した南の壁を力任せに薙ぎ払ったのだ。壁は脆い飴細工のように砕かれ、飛び散り、爆音にも似た音を立てて崖下へと転落していく。
「………っ、嵐!!」
 遠くから兄弟たちの呼び声が聞こえたが、嵐はそれを無視して周囲に視線を走らせた。性懲りもなく彼らを捕らえるつもりなのか、それとも突如として噴き上がった火を消し止めに来たのか、今までの倍以上の警備員が怒号と共に走りこんでくる。嵐はそれを見やって眉をひそめた。
 頭が割れるように痛い。胸が鉛のように重い。喉がひりつき、不快感が背筋を撫で、堪えがたい吐き気が体の中心からこみ上げてくる。それは嵐のトラウマそのものだった。蛍が暗闇を恐れるように。律が一人きりの空間を嫌うように。雫が他人との接触を忌避するように。
「…………ざけんな」
 嵐の拳が逆側の壁を叩く。トン、という軽い音がしただけだというのに、そこから見る見るうちにコンクリートの壁がひび割れ、細かい破片となって爆発したように弾け飛んだ。
「ふざけんなよ」
 静かな足取りで一歩踏み出し、嵐は立ちすくむ男たちを紅の瞳で一瞥した。警備員は銃口を向けられたように体を揺らしたが、仕事熱心な数人が我に返り、この騒ぎの元凶である少年を取り押さえようと突進してくる。嵐はそれを避けなかった。ただ羽虫を払うように腕を振り、一人の頭を掴んで吹き飛んだ壁の向こうに叩き落すと、見返り様に別の男の腹部を爪先で蹴り上げる。その男も仲間と同様、悲鳴の尾の引いて崖下の清流に落下していった。
 彼らは水の冷たさに凍えるはめになっただろうが、それでも残った同僚たちに比べればずっと幸運だった。ある者は四散した壁の破片で顔面を砕かれ、ある者は首筋を殴打されて意識を失い、ある者は蹴りの一撃で肋骨を折られて、呻き声さえ上げられずに折り重なって倒れていった。その間にも火はじわじわと廊下を侵食していく。それでも死人が出ていなかったのは、嵐の近くに三人の兄弟がいたからに他ならなかった。
 嵐にとって、この世界の何よりも大切なのは三人の兄弟たちだった。それは他の三人も同じだったが、結局は他人を拒絶しきれない蛍や、純粋で素直な気質の律と違い、嵐は彼らを守るためなら他者を傷つけることも、自分の身を削ることも厭わなかった。長男の雫と三男の嵐、次男の蛍と末っ子の律はそれぞれ似ていると言えるだろう。雫と嵐は残りの二人を愛しく思い、その優しさと弱さをふくめて守りたいと思っているのだから。
 ともすれば理性を失ってしまいそうな怒りの中、優しい兄と弟が悲しむ、という理由だけで意図せず『力』を抑えてしまえるほどに。
「……嵐!!」
 逃げようと背を向けた男を蹴り倒し、冷酷なまでの正確さで脊髄の上を踏みつけてから、嵐はゆっくりと声のしたほうに視線を向けた。嵐から逃げようとする者、同僚を助けようとする者、あるいは消火器を引っ張り出してくる者たちに阻まれ、暴れている嵐に近づけずにいた兄弟たちが、薄くなった人間を壁を薙ぎ倒してこちらに走り寄ってくる。
 表情の変化は一瞬だった。
「――――兄貴っ!」
 紅の瞳から凄絶な光が薄れ、変わりにすさまじく悲痛な色が浮かび上がった。駆け寄ってきた蛍に向き直り、左の肩に掴みかかるようにして絶叫する。
「兄貴兄貴、大丈夫っ!? 怪我は!? 怪我してないっ!? っていうか肩っ、肩はっ!?」
「………って、それはこっちの台詞だ馬鹿嵐っ!!」
 ぐい、と力任せに嵐の腕を引き、蛍は十センチほど高い位置にある弟の顔を覗き込んだ。青と赤の瞳が空中でぶつかる。
「お前こそ全然大丈夫じゃないくせに暴れまわるな! っていうかやりすぎだ、この馬鹿!」
「うあー……うん、何かすっげー気持ち悪い。吐きそう。吐いていい?」
「駄目に決まってるだろ!」
 ぴしゃりと叱りつけた蛍の横で、律が心配そうに橙色の瞳を揺らした。
「嵐兄、大丈夫? 生きてる?」
「んー大丈夫大丈夫、むちゃくちゃ気持ち悪ぃけど、一応生きてる!」
「でもびっくりしたね、よりにもよって嵐の前で蛍のこと殴るなんて」
 さらに雫が顔を出し、ほっそりとした腕を組んで何度も頷いた。軽く蛍をにらむことも忘れていない。
「もー、蛍も油断しちゃだめでしょ! こういうことになるんだから!」
「…………ごめん」
「まったく、今度から気をつけるんだよ? ……嵐も暴れすぎはだめ! 俺の分がなくなっちゃうでしょ!!」
「雫兄、雫兄、それって台詞の方向性が違うんじゃ……」
 律が可愛らしく眉を寄せてツッコミを入れた。四人を取り巻く空気から『不自然さ』が消え去り、どこまでも柔らかく穏やかなものへと変化していく。
 他人に告げても理解されないだろうが、彼らは四人そろっていなければ生きていけない存在だった。一人欠けただけでもその不自然さに耐えられない。魂の悲鳴に耳を塞ぐことが出来ない。いずれ呼吸の仕方を忘れ、動くことを放棄し、打ち捨てられた人形のように体ごと朽ちていってしまうだろう。『魂のつながり』といえば少女が胸を高鳴らせるだろうが、これはそんな抽象的な概念でも、物語にあるような美しい状態でもなかった。
 四人が不完全な生き方しか出来ないのは、血筋によって受け継いだ『人ならぬ力』の大きすぎる代償だ。彼らはそれを理解している。遠い祖である王たちに感謝さえしながら。四人で生きていけることを純粋に喜びながら。
「……とりあえず、ここから逃げよう。ぐずぐずしてるとここまで火が来るし」
「そーだね、嵐、大丈夫? 走れる?」
 何ならおぶってってあげようか、という雫の言葉に、嵐は勢いよく首を横に振った。軽くよろけながらも立ち上がり、煤に汚れた顔に明るい微笑を浮かべる。
「大丈夫、今ちょっと充電したし!」
「よーし、じゃあ行こっ、三人とも!」
「おーっ!!」
 拳を突き上げる二人を見やり、蛍と律は苦笑を浮かべて視線を交わし合った。
「……あ、ちょっと待って」
 そこでふと動きを止め、蛍は倒れ伏している男たちの傍に屈みこんだ。まだ意識を保っている数人を選び、『支配』の力を発動させる。
「――――火災が起こった時の設備くらいは整ってるだろ。シャッターを下ろすなりなんなりして、これ以上屋敷に火が回らないようにしろ。手が空いてるやつは伸びてる仲間を避難させてやれ。……ただし、僕たちがここからいなくなってからだ」
「……はい」
「それから、僕たちのことはすべて忘れろ。家が壊れたのは爆発事故のせいで、僕たちはまったく関係ない。いいな?」
「はい」
 男たちが従順に頷くのを見て、蛍は細い息を吐き出しながら立ち上がった。優雅な動作で体を翻し、三人の兄弟たちに歩み寄る。
「もういいよ、行こう」
「ん」
 雫が柔らかく笑い、律の背を押すようにして廊下を走り出した。蛍と嵐もそれに続く。嵐の足取りに乱れはなかったが、蛍はどこか痛みを堪えるように目を細め、すぐ隣を走る長身の弟を振り仰いだ。
「……嵐」
「んー?」
「ごめん、さっきは思いっきり油断した」
 言外に「お前の前で殴られて悪かった」と告げてくる兄に、嵐は唇の端で苦笑しながら指を突きつけた。
「んじゃ、次から気をつけること!」
「……善処」
「却下!」
 間髪いれずに即答し、嵐はふっと表情から冗談の色を消してみせた。紅の瞳がわずかに深みを増す。背後で燃え盛る紅蓮の炎のように。
「っていうかさ、次同じことがあったら、俺たぶん相手のこと殺しちゃうよ?」
「………………お前は」
 前を走る二人の後にぴたりとついたまま、蛍はこの上もなく物騒な弟に胡乱な眼差しを向けた。それを深紅の輝きが当然のように受け止める。
 諦めたように溜息を吐き、蛍は炎のようなそれからふいと視線を外した。
「最大限努力はするよ」
「ん!」
 嵐が拳を握ってにこりと笑う。前を走る長男と末っ子も背後を振り返り、二人と視線を合わせて楽しげな微笑を過ぎらせた。
 
 無邪気ですらある兄弟たちの会話を、無残に破壊された壁から覗く、奇妙なまでに赤みがかった月だけが聞いていた。
 どこか禍々しい輝きを湛え、夜空の中にその赤さを浮かび上がらせながら。






    


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