物語の始まり 1


 


 幅の広い長剣が振るわれ、襲いかかってきた凶器を音高く跳ね返した。襲撃者は思いがけない反撃に目を見張り、弾かれた剣に引きずられる形で体勢を崩す。その胸に容赦なく蹴りを入れ、草原の中に突き倒してのけると、青年は身をかがめて背後からの斬撃に空を切らせた。
 十人近くの敵に囲まれ、四方から襲いくる刃に身をさらしているというのに、その青年はわずかにも取り乱したところを見せなかった。年の頃は二十代半ばといったところだろうか。襟足のあたりで切り散らした黒髪、鋭い光を湛えた紅の双眸、見るからに強靭に引きしまった体躯を持つ、男性的な魅力と色香をかねそなえた美丈夫だった。まとう黒衣は土埃によって汚れ、いたるところに血の染みが滲んでいたが、よく見れば襟元や袖口に豪奢な銀の縫い取りがなされている。翻るマントも深紅の生地で裏打ちされた上等なものだ。
 草原の合間に作られた小道に立ち、見え隠れする戦闘の様子を観察しながら、アーシェは困惑したように形のよい眉を寄せた。
(妙な場面に居合わせたな……)
 目の前の獲物に夢中になっているのか、他のものに気を回す余裕がないのか、男たちはすぐ傍にたたずむアーシェに気づいていなかった。今なら見咎められずに素通りできるが、戦闘が多勢に無勢で行われている以上、何も見なかったことにして背を向けるのは気が引ける。
 アーシェの立っている草原の小道は、ランドーラに隣接するレファレンディアの国境付近にあった。見渡す限り緑の草原が続くばかりで、周囲には街の外壁どころか民家ひとつ存在していない。あの男たちが青年を殺し、草原のどこかに埋めてしまったとしたら、名高いレファレンディアの警備隊でも殺人の証拠を挙げることはできないだろう。
「……あまり目立つことはしたくないんだがな」
 溜め息を吐きながら小さく呟き、アーシェはさらりと落ちかかる長い髪をかき上げた。
 彼はここで後先考えずに飛び込んでいくほどお人好しではなかったが、すべてを無視して通りすぎていけるほど残酷でもなかった。今はそのうちの大部分が使えないとはいえ、アーシェにはそれだけの『力』があり、弱き者の守り手であるために旅を続けているのだから。
 どうするかな、と苦いものの混じった表情で眉を寄せ、アーシェが改めて男たちに視線を投げた瞬間だった。甲冑をまとった男のひとりがアーシェに気づき、何のためらいも見られない動作で進路を変え、ぎらぎらと輝く刃を頭上に振りかぶったのは。
 アーシェは軽く眉をひそめた。男たちの正体が何であるにせよ、警告もなく通行人に切りかかり、その命を奪おうとする人間が一般市民であるはずがない。目撃者を消すつもりか、と口の動きだけで呟き、アーシェは落ち着き払った表情で一歩後ろに下がった。そのまま腰に下げた細剣に手を伸ばし、銀の鞘から刀身を引き抜こうとしたところで、アーシェは虚をつかれたように長い睫毛を瞬かせた。
 惚れ惚れするほどすばやい動作で漆黒の風が走りこみ、剣を振りかぶった男に横からぶつかったからだ。蛙がつぶされたような悲鳴を上げ、男は自分の剣を抱えこむような体勢で倒れ伏す。そのすぐ横で一転し、片手に長剣を握ったまま跳ね起きると、襲われていたはずの青年が紅の瞳でアーシェを見返った。
「大丈夫か?」 
 こちらに気を取られた隙に切られたのか、こめかみと頬の部分から生暖かい鮮血があふれ、精悍に整った青年の面差しを汚していた。アーシェは思わず目を見張ったが、青年の方は何の痛痒も感じていない表情で笑い、どこか申し訳なさそうに漆黒の髪をかき上げてみせる。紅玉を思わせる瞳が悪戯っぽく輝いた。
「悪ぃ、まさかこんなところに旅人がいるとは思わなかったんだ。巻き込んじまったな」
「……」
「もうじきこの辺……つっても国境のあたりか。とりあえず、このあたりは戦場になる。早く逃げた方がいいぜ」
 気軽にさえ見える仕草で血をぬぐい、青年は困ったように沈黙しているアーシェに視線をやった。そこで驚いたように片方の眉を跳ね上げる。
 それも当然のことだと言えるだろう。くたびれた旅装のマントを羽織り、田舎道を供も連れずに歩いていた旅人が、魂をわしづかみにされるほどの美貌の持ち主だったのだから。
 頭上でひとつに結われた髪は、いっさいの不純物をふくまない透明感のある純金。左目だけが色調の濃い瞳は、目の覚めるのような極上の青玉。肌は透きとおるような白。唇は咲きそめる花びらのような薄紅。これで胸の部分にまろやかなふくらみがあり、薄絹をかさねた豪奢な衣装をまとっていれば、誰もがこの世に顕現した美の女神シェランティールに違いないと口をそろえるだろう。アーシェはれっきとした男性だったが、抱きしめれば折れてしまいそうに華奢な体躯と、金細工を思わせる繊細な容貌が相まって、男とも女ともつかない不思議な雰囲気を醸し出していた。見つめているうちに現実感が希薄になってくるほどだ。
 普通の人間であれば度肝を抜かれて立ち尽くし、まるで木偶の坊のように見つめ続けるしかない絶対の『美』だったが、青年は稀有な色の瞳に感嘆の色をよぎらせただけだった。それどころか小さく口笛を吹き、無邪気な子供を思わせる表情で微笑してみせる。眼福だ、というように。
「あんたみたいな美人じゃよけい危ねえな。……とにかく、近くの街まで逃げろよ。こいつらはここで止めとくから」
 彼らを包囲するように展開した襲撃者を見やり、血に濡れた長剣を構えなおすと、青年はアーシェを背に庇いながら鋭く微笑した。揺るがない立ち姿と不敵な笑みを受け、男たちは気圧されたように表情を引きつらせる。
「……レファレンディアの獅子よ」
 ややあって低く声を発したのは、襲撃者の代表と思しき中年の男だった。背は高くも低くもないが、甲冑越しでもその体躯がぎりぎりまで鍛え上げられていることがわかる。恐らくは正規の訓練を受けた軍人なのだろう。
「レファレンディアの獅子よ。これ以上は抵抗なさいますな。無駄だということはおわかりでしょう」
 相手の強さが予想外だったのか、男はわずかに疲労の滲んだ表情で長身の青年を見やった。その口調におもねるような色が混じる。
「この場で剣を捨て、我らと共に来て下さるというなら、武人たる礼節を持ってあつく遇するとお約束します。……わが主君も、貴方を客人として迎え入れたいと切望しておりますゆえ」
「やなこった」
 それは過剰なほどに恭しい言葉だったが、青年は肩をすくめただけでそっけなく言い返した。その背後でアーシェが目を見張り、驚愕というより納得の思いをこめて青年を見やる。なるほど、という呟きは音になる前に霧散して消えた。
 背後から向けられる視線に気づかないまま、青年は楽しげな表情で唇の端を持ち上げた。
「いきなり人に斬りかかっておいて武人たる礼節? あつく遇する? 寝言は寝て言え、俺はそこまで状況の読めない馬鹿じゃねえんだよ」
「……あくまでお心は変わらないと?」
「ああ」
「では、致し方ありませぬ」
 ぐっと低さを増した声を合図に、その周囲に展開した男たちが膝をたわめた。青年も瞳をすがめて臨戦態勢を取る。状況は明らかに不利なものだったが、青年はあくまで冷静に包囲網を一瞥し、絶望とは無縁の空気をまとって剣を掲げてみせた。
 その後姿をじっと見つめ、アーシェは何かを諦めたように溜息を吐いた。
 いきなり無関係の旅人に襲いかかってきた男たちと、自分の身を危険にさらしてまでそれを阻んだ青年を見比べ、ひどくゆっくりとした手つきで銀の細剣を抜き放つ。どちらが正しいのは判断できなかったが、どちらに助力するべきかは考えるまでもなかった。そのまま当然のように剣を構え、柄を握り締めながら横へ並んだアーシェに、青年は奇妙なものを見る表情で片眉を上げた。
「おい?」
「助太刀する」
「は?」
「何度も言わせるな。助太刀する。助けてもらったからな」
 青年はますます妙な表情を作ったが、剣を下げたその姿がしっくりとなじんでいるのに気づき、喉まで出かかったちょっと待て、という言葉を飲み込んだ。ぶしつけなまでにアーシェの握っている剣を眺め、ふいに面白がるような笑みを閃かせる。
 剣に注がれていた視線がすっと上げられ、左目の方が色調の濃い青の瞳を覗き込んだ。
「……そういや、青い目ってことはあんた『召喚系』の魔術師だよな。それが剣を使うのか?」
「ああ。確かに私は召喚系魔術師だが、今はわけあってほとんど魔術が使えないんだ。……よく、私が魔術師だとわかったな?」
「そりゃわかるだろ、青い瞳は召喚系の、緑の瞳は使役系の魔術師の証だからな」
「……そうか」
 青年の注視を避けるように目をそらし、アーシェは目の前の襲撃者たちに視線を固定した。男たちは相変わらず貼りつけたような無表情を保っていたが、その目は訝しげな光を湛えて美貌の青年を見つめている。その眼差しを冷ややかに見返し、滑るような足取りで一歩踏み出すと、アーシェは無造作に細剣を下げたままで足元の地面を蹴った。
 男たちは小さく嘲りの笑みを浮かべた。アーシェの乱入は想定外だったに違いないが、軽く小突いただけで壊れてしまいそうな体躯も、装飾品といった方がふさわしいような銀細工の剣も、軍人である彼らの警戒に値するものとは思えなかったからだ。それに対して危機感を覚える方がおかしいだろう。
 だが次の瞬間、三人の男の手から武器である剣が弾き飛ばされ、甲冑に守られていない腕の間接部分が鮮血を噴き上げていた。
「――――っ!?」
 彼らに事態を悟る暇を与えず、鳩尾に柄頭を埋めて昏倒させ、アーシェは体勢を変えながら別の男の腕を一閃した。それは驚愕に値する正確さで腕の腱を切断し、かたく握り締められていたはずの剣を高々と宙に跳ね上げる。澄んだ金属音がわずかな静寂を裂いて響いた。
 あまりにも意外な展開を突きつけられ、襲撃者たちは軍人らしからぬ無様さで足並みを乱した。驚いたのは黒髪の青年も同様だったが、こちらはすぐに我に返って足を踏み出し、アーシェの作った隙に割り込むようにして剣を振るう。その動きは水を得た魚のようだった。一対多数の戦いでもまったく引けを取っていなかったが、アーシェという強力な味方が現れ、防御の負担が減ったことで思い切った攻勢に出られるようになったのだろう。漆黒のマントが風をはらみ、青年の動きに合わせて裏地の深紅を垣間見せる様は、大軍を率いて戦場を駆ける一国の総大将を思わせた。
 青年の背を守るように動きつつ、アーシェは一人目の肩を、二人目の肘を、三人目の太腿を深く切り裂いて膝をつかせた。命に関わるような傷ではないが、これ以上戦おうとすれば手足が使い物にならなくなる深手だ。その絶妙な境目を見極め、うまく手加減しながら剣を操るアーシェに、残った襲撃者たちは氷の塊を飲み込んだような顔を作った。
「なんだ……っ」
「――――魔術か!!」
「遅い!!」
 男たちの狼狽を一言で切って捨て、アーシェはがむしゃらに突き出された剣を避けながら手首を返した。一瞬の間を挟み、まるで冗談のような滑稽さで小さな何かが宙を舞う。男は何が起こったか理解していないようだったが、すぐに剣がうまく握れないことに気づき、奇妙なまでに血にまみれている己の手に視線を落とした。その顔から表情が消え、次いで悲痛な絶叫が空気をかきむしる。
 数秒前まで五指がそろっていたはずの右手から、恐ろしいほどの正確さで親指だけが切り飛ばされていたのだ。
 痛みより衝撃に目を見張り、呆然と己の手元を見つめていた男は、すぐ目の前に金色の閃光が走りこんできたことに気づかなかった。顔を上げた途端に腹部に鈍い痛みが弾け、悶絶することすらできずに力なく崩れ落ちる。その男が最後の襲撃者だった。
 そこで思い出したように風が吹きぬけ、血を吸って重たげな草をゆるやかに揺らした。さらさらと流れた純金の髪をはらい、細剣を軽く振るって血を落とすと、アーシェは何の感情もふくまれていない目で襲撃者たちを見下ろす。普段は宝石のようにきらびやかな青い瞳が、今は研磨された剣を思わせる光に輝いていた。
「……おまえ」
 どこか呆然とした青年の声に、アーシェはかすかな痛みを感じさせる表情で振り返った。
「なんだ?」
 その細い腕をがっしりとつかみ、青年は心から驚いたように目を見張った。手の中におさまってしまう腕を見つめ、確認するようにぶんぶんと上下に振る。予想外の反応に青い瞳が丸くなった。
「な……」
「おまえ、今の魔術じゃなくて素だよな? 信じらんねえ、このほそっこい腕のどこにそんな膂力があんだ? ……うわっ、やっぱ細ぇ! ちゃんと飯食ってんのか!?」
「……細くて悪かったな。それに素とか言うな、素とか」
 青年の手から腕を取り返しつつ、アーシェは不思議なものを見るような目で青年を仰いだ。肩口から純金色をした髪が滑り落ち、血なまぐさい場にふさわしくない涼しげな音を立てる。
「おまえは、怖がらないんだな」
「ん? 何だ?」
「いや」
 なんでもない、と呟いて首を振り、アーシェは手にしたままだった細剣を鞘におさめた。その横で青年が首をひねる。邪気のない悪戯好きな少年のように。
 それを『召喚系』魔術師の証である瞳で見やり、アーシェは長い睫毛を何度かしばたたかせた。
 呪文を詠唱する『詠呪』(えいじゅ)によって、その場に存在しない物質を呼び寄せることができる召喚系魔術師。それだけでも十分警戒に値するというのに、魔術を使うことなく人間離れした剣技を見せるアーシェに対して、この黒髪に紅の目をした青年はまったく恐怖心を抱いていないらしい。アーシェは呆れたように眉を寄せたが、不思議と、青年の持つぶしつけさは彼に不快感を与えなかった。
 アーシェの表情をどう取ったのか、青年は慣れた動作で長剣をおさめ、人好きのする面差しを笑みにほころばせた。
「とりあえず、助けてくれてありがとうな。おかげで助かったぜ」
「……いや」
「ひょっとして流れの傭兵か何かか? 吟遊詩人とか舞い手とか歌姫とか……じゃねえよな、やっぱ」
 でたらめな強さだったもんな、と何のふくみもなく頷く青年に、アーシェは長い睫毛に縁取られた瞳を小さくすがめた。
「最後の『歌姫』だけ余計だ、わかってて言ってるのか?」
「いや、おまえ男だろ? 本当にまったくこれっぽっちもそうは見えねえけど!!」
「そこまで力を込めて断言するな! ……とりあえず、さっきの質問に対する答えは『違う』だ」
 青年の強引さに引きずられているのを自覚し、ひとつ息を吸い込んで気を落ち着けると、アーシェは長くしなやかな指でこめかみを押さえた。もう一方の手で腰の細剣に触れ、まるで愛しむように銀の細工をなぞる。
「似たようなものだけどな。傭兵ギルドに加盟している正規の傭兵、というわけじゃない」
「ふぅん? 正規の傭兵じゃねえけど傭兵みたいなことはしてる、って感じか?」
「まあ……」
 そうなるな、と頷いたアーシェを見下ろし、青年は明るい色彩の双眸を煌かせた。うずくまっている襲撃者たちに視線を向け、何かを探すように草原の向こうを見やってから、訝しげな顔になるアーシェをよそに悪戯めいた笑みを作る。
 ふいに柔らかな風が草原を撫で、丈の長い草を潮騒のようにざわめかせていった。それに乱された髪をおさえ、頭半分ほど低い位置にある美貌をまっすぐに見つめると、青年はひどく楽しげな仕草で深い紅の瞳をすがめた。
「それじゃ、今から俺に雇われる気はないか?」






    


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