許されない願いでも 1


 


 清々しい匂いのする風が吹きすぎ、王城に植えられた木々をざわざわと揺らした。
 レファレンディアは四季を持つ国だが、春と秋がわがもの顔で鎮座する期間に比べ、夏と冬が支配権を主張できる期間はかなり短い。春らしさを脱ぎ捨てたばかりの陽光も、あと少しすれば忍び寄ってくる秋の気配をまとい、レファレンディアに暮らす人々を穏やかに照らし始めるだろう。確かに暮らしやすい国ではあるな、と口の中でひとりごち、突き出された剣の切っ先を身軽にかわすと、アーシェは右手に下げた長剣の柄を握りなおした。
 手のひらに伝わってくるざらついた感触も、華奢な片手にかかるずしりとした重みも、装飾性を廃した実利一辺倒のこしらえも、アーシェが普段使っている銀の細剣とはまるで異なるものだった。刃のついていない訓練用の剣だが、だからといって殺傷能力が皆無というわけではない。斬りつけられれば皮膚が裂けるだろうし、思いきり殴られれば骨の一、二本くらいあっさりと折れてしまうだろう。
 そうであるにも関わらず、アーシェのいでたちは驚くほど身軽なものだった。
 肌に心地よい風が吹きぬけ、腰の部分でしぼられた裾をバタバタとはためかせていく。全員が略式の防具に身を固めている中、薄い布地の服は何とも言いがたい違和感をかもし出し、ほっそりしたアーシェの姿を訓練場に浮かび上がらせていた。新米らしい兵士が大きく目を剥き、近くに立っている上司に何事ですか、と問いかけているほどだ。
「……先ほどから避けているばかりではないか。貴殿がまことに戦神シエルの御子であるというなら、私ごとき雑兵など一撃で叩きのめせよう。少しはそちらから仕かけてきて下さらないか?」
 嘲りの色を乗せた低い声に、アーシェは嘆息したいのを堪えて剣を構えなおした。
 均整の取れた長躯と、全身を覆う引きしまった筋肉と、長剣を苦もなく扱う膂力とを持つ、いかにも生粋のレファレンディア人らしい武人然とした男だった。手にしている得物はアーシェの剣と変わらないが、それを扱う腕の太さは大人と子どもほどに違う。あれじゃあいくらなんでも勝負になりませんよ、という新米兵の言葉を受け、不安そうに歪んでいる顔に視線をやると、観衆に回っている壮年の兵士は軽く唇をつりあげてみせた。
「心配はいらんよ、まあ見てろ」
「でも……」
「あの方は戦神シエルの御子さまだ。われわれが案じることなど何もない、すぐに魔獣さえしのいだそのお力を見せて下さるだろう」
 それは音量を抑えたささやきだったが、常人離れした聴力のせいで一言一句漏らさずに聞き取ってしまい、アーシェは剣を構えながら嫌そうに眉を寄せた。
 アーシェがレファレンディアの城に身を寄せ、客将として滞在するようになってから一ヶ月が経った。可能な限り人の目にとまらないよう、あてがわれた部屋で一日の大半を過ごしてきたのだが、そう何日も引きこもったままで生活できるはずがない。今日は街の方にでも行ってみるか、と部屋を出た瞬間、待ち伏せていた兵士の集団に取り囲まれ、あれよあれよという間に訓練場で屈強な軍人と向かい合うはめになったのである。顔をしかめてしまうのも無理からぬことだった。
「……確か稽古をつけてくれ、ということだったな」
「ああ、もちろんだ。ひとりで獣人数体を倒してのけただの、ランドーラの囲みを突破してみせただの、にわかには信じがたい噂を数多く聞くのでな。本来ならもっと早くその腕前を見せていただきたかったのだが……」
 なにぶん貴殿は部屋に閉じこもっておいでだったから、とわざとらしくつけ足し、男は剣を構えたままたくましい肩をすくめてみせた。とたんに周囲の観衆からざわめきが巻き起こる。男に同調する揶揄の声と、期待のこもった熱っぽいささやきが半々といったところか。前者はアーシェの実力を知らない者の、後者はイグリスの砦で彼の戦いを目にした者の反応だろう。
 ふぅ、と溜息に限りなく近い息を吐き、アーシェは滑るような動作で片方の足を踏み出した。
「わかった。あまり勝手なことはしたくなかったんだが、仕方ない」
「……うん?」
「まじめに相手をしてやる。怪我をしないように気をつけろよ」
「そうか、それはそれは……」
 おもしろい、と笑い交じりに続けようとした男は、アーシェの姿が視界から逸脱したことに気づき、鋭く切れ上がった瞳を大きく見開いた。
「……な」
 勝敗が決したのは一瞬だった。あっという間に男の間合いに入り込み、根元から掬い上げるように剣を振るったアーシェが、男の手から唯一の得物を弾き飛ばしてしまったのである。大振りの長剣はくるくると宙を舞い、奇妙に乾いた音を立てて訓練場の地面に転がった。まるで何かの冗談のように。
 それを冷めた瞳で一瞥し、無骨な作りの剣を静かに下げると、アーシェは間の抜けた格好で固まっている男に視線を戻した。
「今の攻撃くらいなら避けられたはずだろう」
「……は?」
「噂に名高いレファレンディアの兵なら、あの程度の攻撃で剣を飛ばされるはずがないだろう、と言ったんだ。戦う前から相手を侮ってるからこうなる。仮にも武人なら相手の力量くらい向かい合っただけで見極めろ」
「……」
 何か起こったか理解できていないのか、男は呆然としたままアーシェを見つめ、剣を握っていたはずの手に視線を落とし、狐につままれたような顔で何度も瞳を瞬かせた。一拍置いて驚愕と歓喜の声が弾け、広々とした訓練場の空気を思い切り揺らしていく。ある者は頬を紅潮させて指を鳴らし、ある者はわが目を疑うように首を傾げ、平然とたたずんでいるアーシェに幾種類もの視線を集中させた。
「な……え? えぇっ?」
 アーシェと上司を何度も見比べる新米兵に、壮年の兵士は片頬だけをつり上げる人の悪い笑みを作った。
「だから言っただろう。あの方は戦神シエルの御子さまだ、とな」
 どこか誇らしげに響く兵士の言葉は、クレスと共にイグリスの砦に向かい、アーシェの武勇を目の当たりにした者すべての思いだった。兵の半数が瞳を輝かせ、同僚の肩を叩きながら陶然とささやきを漏らす。さすが戦神の御子、さすが国王陛下の守り神だ、と。
 いつからそうなったんだ、という呟きを口の中に封じ込め、アーシェは溜息を吐く代わりにゆるい動作で首を振った。この若さで溜息が習い性になるなど、あまりにも馬鹿馬鹿しすぎて笑い話にする気も起きない。
「……次はどうした」
「は?」
「稽古をつけてほしいんじゃないのか? ……もういいなら私は部屋に戻るが」
 何とはなしに告げた言葉だったが、そのわずか数秒後、アーシェは自分の律儀さを心の底から後悔した。
「……かっ、感服いたしました、アーシェ殿っ!」
「われら一同、ぜひとも戦神の御子さまに稽古をつけていただきたい所存です!」
「よろしくお願いいたします、アーシェ殿っ!!」
「どうかわれわれを叩きのめして下さいっ!!」
「ちょっと待て! 最後に変な台詞が混じったぞ!!」
 すさまじい勢いで迫ってくる集団に顔を引きつらせ、アーシェは無駄と知りつつも渾身の力を込めて叫んだ。押し寄せてくるむさくるしい男たちを見やり、神がかった脚力をもって城下まで駆け去りたいという衝動を必死に押さえ込む。ここで逃亡してもアーシェを責める者などいないのだが、この国に力を貸すことになった経緯から知れるように、アーシェ・エリュスという名の青年はどこまでも押しに弱いのだ。
 結局、アーシェに残された道は諦めの息を吐き、楽曲の女神を思わせる声で一喝することだけだった。人はそれを自棄と呼ぶのだが。
「……わかったから押すな、相手になってほしかったら数人ずつ来い! まとめて相手になってやる!!」
 実に男らしいアーシェの台詞に、おぉっという熱のこもった歓声がいたるところで弾けていった。




 アーシェは頻繁にクレスの自室を訪れていたが、執務室にはよほどのことがない限り近づかないようにしていた。
 仕事中のクレスに用があることなど皆無に等しいし、部外者に機密事項が漏れてはまずいだろうという常識的な意識も働くからだ。もっとも、国政以外の面では積極的にアーシェの意見を聞き、いい案を引き出せると嬉しそうに笑って採用してしまうクレスが、アーシェを部外者と認識しているかは甚だ疑わしかったが。
「……クレス? いるんだろう、入るぞ」
 だが、だからといってクレスの呼び出しを一蹴できるほど冷たいわけでもなく、稽古を終えたアーシェは律儀に声をかけて執務室の扉を開いた。
「何か用か? これから部屋に戻って……」
 着替えるところだったんだが、と続けようしたアーシェは、室内に足を踏み入れた瞬間、襲いかかってきた白い『何か』に潰された。
「なっ……」
 テーブル上に積んであった書類がぐらりと傾ぎ、無防備だったアーシェの頭上に崩れ落ちてきたのだ。いくら訓練場で数十人の兵士を相手取り、そのすべてを数秒で地に沈めてきたアーシェでも、その突然すぎる攻撃を完璧にふせぐことはできなかった。
 床の上に転倒こそしなかったが、数百枚の紙を頭からかぶってしまい、アーシェは形のよい口元を思い切り引きつらせた。薄い紙とはいえ、こうまで重なれば痛いものは痛い。
「――――何をするんだ、この馬鹿がっ!!」 
 肩に乗ったままの書類を払い落とし、アーシェは執務室の主に向かって思い切り怒鳴り声を上げた。
「……あ? 何だアーシェ、早かったな」
「早かったな、じゃないだろうが! どうして部屋に入ってきただけで書類が崩れ落ちるんだ!? 痛いだろうがこの馬鹿が!!」
「ば、馬鹿とは何だ、馬鹿とは! しょうがねえだろう、崩れちまったものは!!」
 机上の書類をがさがさとかきわけ、クレスがアーシェに負けない大音声で怒鳴り返した。明らかに居直っている国王を見やり、なんだそのめちゃくちゃな理屈は、と返しかけたところで、アーシェは何かに気づいたように青の瞳を見開いた。
「……クレス。おまえは何をやってるんだ?」
「ん? 見りゃわかんだろ?」
「わかるに決まってるだろう。私が言ってるのは、何で執務室で着替えてるんだ、ってことだ。……しかも、明らかに庶民的な平服に」
 アーシェの言葉通り、クレスはまとっている国王の部屋着を脱ぎ捨て、慣れた仕草で質素な平服を着込んでいるところだった。黙っていれば気品のある顔立ちをしている割に、クレスはこういった飾り気のない庶民的な衣服がよく似合う。妙なところに感心しているアーシェの前で、クレスは織り目の粗い黒のマントをはおり、脱いだ衣装を執務机の下に放り込んでみせた。やはり惚れ惚れするほど手慣れた動作だ。
「そりゃな。いくらなんでもきらきらした服のままで街に出て行くわけにはいかねえだろ?」
「待て、街に行くことを前提に話を進めるな。……ひょっとして、脱走する気か?」
「おう。ちょっと街に野暮用があってな」
「……それはファレオも知ってるのか?」
 こめかみを押さえて溜息を吐いたアーシェに、クレスは紅の瞳を細めて明るく笑った。
「ああ。最初は少なくとも護衛十人は連れてけだの、自分もお供しますだのって聞かなかったんだけどな。アーシェについて来てもらうっつたらあっさりと引き下がったぜ」
「何だそれは。私はお守りか」
 げんなりした表情で呟きつつ、アーシェはやや意外そうに両目を瞬かせた。保守的な臣下たちは顔をしかめるばかりだが、あの人のよい青年はずいぶんとアーシェのことを信用しているらしい。
「ま、似たようなもんかもな。つーことでアーシェ、ちょっと街までつきあえ」
 書類の束を扉の付近に積み上げ、対臣下用の罠をてきぱきと作りながら、クレスは丈夫そうな縄の下がっている広い窓辺を指差した。私が書類をかぶったのはとばっちりか、と嫌そうに呟き、アーシェは真意を探るように紅の双眸を振り仰ぐ。
 鮮やかな色彩がどこまでも楽しげに細められた。
「俺の護衛は任せたぜ」






    


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