王者の帰還 3





 夢をみていた。
 夢といっても、眠っている最中に意識が作り出すものとは違う、現実の隙間に落ちてきた柔らかい白昼夢だった。真っ白な靄(もや)が音もなくたなびき、後頭部で結われた純金色の髪と、むき出しになった白皙の肌をわずかにしめらせていく。
 懐かしいと感じるほどではないが、二年前に行われた戦いで何度も目にし、そのたびに視界の悪さに苦笑させられた場所だった。風が吹くたびに白い靄が揺れ、あいまいにぼやける木立の影や、その合間にきらめく鏡のような湖面をあらわにする。風と靄が戯れるような光景に、胸の奥に沈めていた記憶が小さな声で痛みを訴えた。
 つめていた息を細く吐き出し、アーシェは緩慢な動作で白い靄の中に立ち上がった。
『――なんだ、おまえか』
 ぽつりとこぼされた静かすぎる声は、辺りに立ち込める靄の中に吸い込まれて消えた。
『そうだよ。久しぶり』
 アーシェが無言のまま見つめる先に、ほのかな光をまとう細身の人影があった。引きずるほど長い衣装が風を受け、まるで船に張られた帆のように大きく翻る。
『君は本当に変わらないね。そういうところも全部、二年前から何ひとつ変わってない』
 そう言って淡く微笑んだのは、肩に落ちかかる白金の髪に、光の加減で移ろう琥珀の瞳の、いっそ病的なまでに色素の薄い少年だった。
 記憶の中にあるものとまったく同じ、見ている方が心配になるほどの儚い容姿だったが、最後に会ったのが今から二年前であることを考えると、現在はもう少し健康的な雰囲気になっているのかもしれない。やっぱりこれは夢だな、と胸中に呟き、アーシェは改めて白をまとう少年に向きなおった。
『何をしに来たんだ? おまえはそんなに暇じゃないはずだろう』
『君に一言、忠告をしに』
 打てば響くような、という表現がそのまま当てはまる、ためらいも迷いもふくまれていない口調だった。アーシェの瞳が厳しくなり、それにともなって周囲の空気が張り詰めたものに変化する。
『忠告?』
『そうだよ。今さら言うまでもないことだけど、君が今からしようとしていることは危険すぎる。わかっているのかい? 君がしようとしていることは、君の楔(くさび)を壊すということなんだよ』
 アーシェの表情が変化しても、少年の漂わせる穏やかな空気は損なわれなかった。琥珀の瞳に悲しみの色を浮かべたまま、脇に下ろしていた右腕を持ち上げ、アーシェの胸の中心辺りをまっすぐに指し示す。
『あの時言ったはずだよ。君が人間として生きていくなら、その楔は君を……君の自由を守るだろうと』
『……』
『楔を壊してしまえば、もうそれを元どおりに戻すことはできない。君はそれでもいいと言うんだろうけど、あふれ出した力は君の体を傷つけて、最後には壊してしまうかもしれないよ』
 それでもいいのかい、という静謐な言葉と共に、少年はゆったりした動作で琥珀色の瞳を瞬かせた。
 その色彩をじっと見つめ、何かを受け止めるように目を伏せると、アーシェは揺るぎない微笑に口元をほころばせた。
『大切なものができたんだ』
 それは問いに対する直接の答えではなかったが、白の少年は淡い色の瞳を丸くした後、特に急かすことなくほっそりした首を傾げてみせた。伏せていた瞳を前に据え、アーシェはひとつひとつ言葉を選びながら口を開く。
『本当に大切なものができたから、最後の最後まで戦い続けていたいんだ』
 決意を込めて告げた瞬間、下ろしていた右手に馴染んだ感触がよみがえり、アーシェは唇の動きだけで穏やかに呟いた。やっぱりこれは夢だ、と。
『それに、おまえが言ったんじゃないか』
『……僕が?』
『そうだ。おまえが私に、この楔が君の自由を守るだろうと、そう言ったんじゃないか』
 その言葉が事実なら、楔によって封じられた力を使うのも、それによって大切なものを守るのも、他の誰でもないアーシェ自身の自由であるはずだった。右の手のひらに力を込め、血にまみれた細剣の柄を握りなおす。思い出したようになめらかな肌が弾け、アーシェの全身にひどい裂傷と火傷を作り出したが、それでも稀有な美貌に浮かぶ表情は欠片も変わらなかった。この痛みこそが現実だからだ。
『……そう』
 そんなアーシェを静かな瞳で見つめ、少年は先ほどまでとは異なる晴れやかな表情で微笑した。
『そうだね。君はそういう人だったね』
『……』
『なら僕たちは、君の起こす行動のすべてをここで見守ろう。その行く手にアーカリアの加護があるよう、理の使徒として天に祈っていよう。心からの敬意をもって』
 深い敬愛のこもった口調で呟き、少年は長衣の裾をさばきながらアーシェの足元に跪いた。片方の手を胸の部分に押し当て、もう一方の手を体の線に沿って下ろすという、最高の敬意をこめた魔術師特有の礼を取る。
 琥珀の瞳が何かに焦がれるように細められた。
『お帰りなさいませ、われらが王』
 その言葉が響いた瞬間、ぴしりと音を立てて銀の細剣に皹が入り、柄頭から切っ先にいたるまで一気に砕け散った。
『裁定者エリュシオンよ』




 背後で爆発したすさまじい光に、クレスは愕然とした表情で紅の目を見開いた。
 クレスとファレオを飲み込もうとしていた炎が、背後からあふれ出した光にあっけなくはばまれ、まるで突風の前の灯火のようにゆらいで消えた。え、というどこか間の抜けた声を漏らし、ファレオが自身の無事を確かめるように手のひらへと目を落とす。
 すべてを圧倒して爆発したのは、何の熱も感じられない無色透明の光だった。
 レガートが声もなく目を見張り、何かに突き飛ばされたように一歩後ろに下がった。弓を構えていた指から力が抜け、ファレオも抑えきれない体の震えと共に両膝をつく。攻撃の術のように殺意がこめられているわけでも、暴力的なまでの威圧感がこめられているわけでもないのに、純粋な魔力の光はそれをまとわない者に対して優しくはなかった。
「……ん、だ?」
 ぎこちない動作で背後を振り向き、クレスはふいをつかれたように呼吸を止めた。不思議と目を焼かない光の中、華奢な人影がすがっていた壁に片手をつき、すでにボロボロになっているはずの体を引き起こすのが見えたからだ。
 ぷつんというごく小さな音を立て、その髪を束ねていた結い紐が弾け飛んだ。清冽に流れる純金色の輝きに、クレスは言い知れない既視感を覚えてその場に立ちすくむ。
 胸のうちに意識しない呟きが漏れた。
(――――おまえ、か?)
 クレスの脳裏によみがえったのは、城門前の広場でアーシェの紡ぐ歌声を聞いた時、ひどく鮮やかに意識を支配した戦場の光景だった。
 たったひとりで騎兵の前に立ちはだかり、雷(いかずち)によってその大半を消し飛ばした人物と、とめどなく湧き上がる無色の光をまとい、純金色の髪を流してたたずむアーシェの姿とが、クレスの中でわずかな狂いもなくぴたりと重なる。
(あれはおまえだったのか、アーシェ?)
 クレスの内心の呟きが聞こえたように、アーシェがゆるやかな動作で伏せていた顔を持ち上げた。
 そこにあったのは、青と緑に染まる色違いの輝きだった。
「……それは」
 アーシェの双眸を食い入るように見つめ、レガートは冷たく整った面差しに驚愕の表情を閃かせた。
 右目と比べてやや濃い色合いの、晴れやかな青に染まっていたはずの左目は、緑柱玉(りょくちゅうぎょく)より翡翠よりずっと美しい、使役系魔術師の証である緑色へと変化していた。右目に湛えられた青がそのままである分、左目に起こった色の変化は劇的で、それを見つめるクレスの胸に不思議な感慨を湧き上がらせた。
 そういえば、と胸中にひとりごち、クレスはアーシェがレファレンディアに来たばかりの頃を思い出した。おまえの目の色って左の方が濃いよな、と何気なく語りかけたクレスに、アーシェは曖昧としかいいようのない微笑を浮かべ、まるでそれ以上の会話を拒むようにその場を立ち去ってしまったのだ。その時はわけがわからず首をひねるしかなかったが、今ならアーシェがその話題を嫌がった理由に思い至ることができた。
「それは……まさか、その色彩は……」
 呆然と漏らされたレガートの声に、アーシェは無言のまま背筋を伸ばして歩き始めた。完全にふさがっているとは言いがたいが、その身をさいなむ傷の大半は無色の光によって癒されつつある。よどみのない足取りで歩を進め、クレスとファレオより数歩分だけ前に出ると、アーシェは眼前に立ち尽くしているレガートに感情のこもらない一瞥を投げた。
「いくつか、忠告しておこうか」
 空気を揺らしたその言葉に、吹きぬける風が歓喜の歌を歌い上げ、燃えさかる太陽が輝きを増し、世界が紛れもない優しさをこめてさんざめいた。それを当然のように受け止め、アーシェはレガートを見つめる色違いの瞳に力を込める。
 それだけで周囲に満ちる魔力の密度が変わった。
「……そうか。では、おまえが」
 上手く動かない喉と口を叱咤し、レガートは体の奥からかすれた声をしぼり出した。
 彼を守っていた魔力が引きはがされ、代わりにアーシェのもとへと集っていくのがわかったが、無防備な状態で敵の前に放り出されたにも関わらず、彼が感じていたのは恐怖とは異なる感情だった。
「いや、あなたが……」
 敬意すら込められたレガートの言葉に、アーシェは細い両腕を胸の前で組み合わせながら眉をひそめた。そこに走っていたはずの傷はすでに癒され、ずたずたに千切れてしまった装束の袖と、白い肌にこびりついた赤黒い血だけが、アーシェの負った数え切れない傷の存在を証し立てている。
「召喚系魔術師の証である青い瞳と、使役系魔術師の証である緑の瞳は、それぞれ理の神アーカリアがその身に帯びる色彩を示しているものだ。ただそこにあるだけで、至高の存在の加護を謳い上げている色彩だ。それが混じりあうことなどありえない」
 ひややかな口調で断じてみせ、アーシェはレガートの碧色を湛える瞳を見やった。
「裁定者の持つ瞳はアーカリアと同じ、召喚系と使役系の加護と等しく受けたのものだ。青と緑が混じりあった色彩でも、そのどちらにも属さない色彩でもない。わかるか? 裁定者を名乗った魔術師よ」
 足元の地面に座り込んだまま、ファレオがそれじゃあ、と呆けたような声で呟いた。クレスも思わず息を呑む。
「おまえの力は裁定者のものとは違う、絶大な力と技術に裏づけされた使役系の魔術だ。おまえが使ってみせた炎も、ランドーラの兵が持っていた火種を呼び寄せて、詠呪なしで召喚系の魔術を使ったように見せかけただけにすぎない。……だから私を捉えるのにもっとも有効なはずの、攻撃系の術の中でも最速である雷撃系魔術を使わなかったんだろう? 裁定者の使う魔術がどんなものなのかも知らないで」
 そこで一度言葉を切り、アーシェは温もりの感じられない仕草で唇の端を持ち上げた。
 それは絶対者が卑小なものを高みから見下ろす、憐れみと侮蔑の入り混じった冷たい微笑だった。
「愚か者が」
「……っ」
 無色の光がレガートの体を包み込み、その双眸から淡い碧の色彩を跳ね飛ばした。碧の下から鮮烈な緑が顔をのぞかせ、アーシェの言葉が正しかったことを周囲の人間に知らしめる。
 アーシェの後姿に視線を向けたまま、クレスは深い感嘆のこもった表情で息を吐いた。
 アーシェのまとう濃密すぎる魔力に、クレスが恐怖や不安の類を感じることはなかった。アーシェが戦っているのはレファレンディアのためなのだと、こうして隠していた力を解放したのはクレスたちのためなのだと、自惚れでも何でもなく事実として知っていたからからもしれない。光をまとわせてたたずむアーシェを見つめ、ただ純粋な気持ちで綺麗だと思った。
「……クレス」
 クレスの内心を知ってか知らずか、アーシェが静かな表情で背後を振り返り、色違いの瞳を細めて小さな笑みを作った。
「おまえは下がってろ。私がけりをつける」
「……ああ」
 クレスの気のせいでなければ、その瞳がクレスの姿を捉えた瞬間、青と緑の色彩によぎったのは普段と変わらない柔らかさだった。
 泣きたくなるほど綺麗で優しい、クレスの好きな表情だった。






    


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