04 幕間、それは癒えない傷跡


 


 激しい雨が降っていた。
 まるでバケツをひっくり返したような、という表現がぴたりと当てはまるすさまじい豪雨だ。水滴が勢いよくアスファルトを打ち、空気を灰色に染め上げ、人気のない住宅街を息が詰まるような静寂に閉じ込めていた。
 頬を伝う水滴をぬぐい、上手く焦点の合わない瞳をめぐらせると、結城は広い道路の中央で軽く膝を折った。視線の先にはひどく小さな人影がある。ぎゅっと体を縮め、頭を抱えるようにして座り込んだ子供に、結城は自分でもよくわからないまま優しく声をかけた。
「……どうしたんだ?」
 子供は反応を返さなかった。ただ不規則に体を震わせ、雨音の中に胸が締めつけられるような嗚咽を響かせている。
「……なあ、泣いてたらわからないだろ? どうしたんだ?」
 子供の傍に屈みこんだまま、結城はどこかぼんやりした仕草で首を傾げた。
「なんで、泣いてるんだ?」
 三度目になってようやく気づいたのか、子供がゆっくりとした動きで顔を上げた。フードのついたパーカーにティーシャツ、膝まで覆う半ズボン、やや大きいスニーカーを身に着け、男にしては長めに髪を伸ばした可愛らしい顔立ちの少年だった。年齢はまだ十に達していないだろう。真っ赤に腫れ上がった目も、涙によってぐしゃぐしゃになってしまった顔も、生気が感じられない人形のような表情も、少年の持つ美貌を損なう要素にはなっていなかった。
 その分泣き顔が痛ましく感じられ、結城はぼんやりした思考のまま少年に手を伸ばした。黒目勝ちの瞳を見下ろし、濡れて貼りつく黒髪をやんわりと撫でてやる。われ鐘のように響く鼓動を耳元に感じながら。
「なあ、どうして……」
 鼓動のリズムがどんどんはやくなる。髪を撫でる指先が強張る。それ以上は駄目だ、という声を胸の奥で聞きながら、結城は何かに操られるようにして言葉を続けた。
「どうして……」
 雨音は止まない。鼓動も静まらない。全身を支配する警鐘はますます激しくなっていく。
「……泣いてるん、だ?」
「あのね」
 初めて少年が口を開いた。声変わりのすんでいない柔らかな声だったが、込められた響きは機械音のように虚ろなものだった。雨が叩きつけるように降りしきり、流れていく涙を水滴の中に紛らせていく。
「あのね。みんなが死んじゃったの。……家の中で、血がいっぱい出て。おとうさんも、おかあさんも、死んじゃったの」
 結城の瞳がふっと見開かれた。
「………それは」
「死んじゃったんだよ。本当は、僕も、いっしょに死んじゃうはずだったのに」
「………」
「愛してるから、いっしょに死のうって、おかあさんが言ったのに。一人にしないからね、って、おかあさんは僕に言ったのに」
 どこまでも虚ろな口調で呟き、少年は印象的な黒い瞳で結城を見上げた。よく似た色彩の双眸がじっと見つめあう。いや、それは『よく似た色彩』ではなかった。
「なのに、何で生きてるの?」
 見つめあうのは『まるで同じ色彩』だった。歪んだ鏡を覗き込んだように。
「ね。なんで僕は、生きてるの?」
「………な」
「おかあさんを殺したのに。なんで、『僕』は『今』もこうして生きてるの?」
 少年の唇が淡い笑みを作り、小さな手が『結城』に向かって伸ばされた。その手が『結城』の頬に触れた瞬間、座り込んでいた少年の姿が劇的に変化する。小さかった指は長くしなやかなものへ、大きな瞳は涼しげで切れ長なものへ、黒髪は襟足だけをやや長く伸ばしたものへ。
 『青年』はどこまでも穏やかに笑う。結城と同じ顔で。声で。
 胸が痛くなるほど綺麗な笑顔で。
「『おれ』は、どうして今も生きてるんだ?」
「――――っ」
「なあ、『結城』?」




 まず感じたのはわずかな息苦しさだった。ゆっくりと瞼を持ち上げ、楽しげに細められた茶色の瞳、月明かりに透ける茶髪、『自分の首にかけられている』手の順に視線を動かすと、相手が実に嬉しそうな表情で笑いかけてくる。腕に力を込めて上半身を起こし、結城はものすごく嫌そうな表情で相棒の手を振り払った。
「……っていうかコラ、暗殺だったらおれが起きる前にすませろよ。耄碌したか?」
「いやいや、別にそんなつもりはないんだけど」
「そんなつもりもないのに寝ている相手の首を絞めるのか?」
「だから絞めてないってば。ゆーきちゃんがうなされてたから起こしてあげようと思って」
 うわぁなんて優しいオレ、とわざとらしく身をよじる流河に、結城はすべてが面倒くさくなった表情で黒髪をかき上げた。
「―――お前のくだらない御託はどうでもいいとして。なんでお前がこの部屋にいる? まさか一人じゃ寂しくて寝られないとか抜かすつもりか? 一緒に寝てとかほざいたら撃ち殺すぞ?」
 二人にあてがわれたのは一続きになった客間だが、間をふすまによって区切ることが出来るようになっている。いっそ区切らずに一緒に寝ようっ、と提案した流河に対し、結城が銃を構えて「だったら廊下で寝やがれ」と冷たく言い放ったため、二人の寝場所はしっかりと別の部屋になっていたはずだった。
 布団の上で目を据わらせ、早く出て行けとばかりにふすまを指差した結城に、流河はいつもと変わらない表情で明るく笑ってみせた。
「ひどいなー、そんなに出て行ってほしい?」
「なに言ってんだ? そんな当たり前……」
「一人じゃないと泣けないから?」
 闇色の瞳がわずかに揺れた。枕元であぐらをかき、後頭部で両手を組み合わせると、流河は世間話をするような口調で言葉を続ける。
「ゆーきちゃんってさぁ、馬鹿だよね? ホントは喧嘩とか大の苦手で、人を傷つけたり、銃を撃ったりするたんびにそうやって悪夢を見るくせに」
「…………」
「なのになんでこの仕事続けてんの? 施設からあんたを引き取って、育ててくれたあの社長への恩返し?」
「……うるさいな。そんなこと、お前に」
 関係ないだろう、と続けようとした結城をさえぎり、流河はどこまでも優しい表情で首を傾げてみせた。
「それともなに? ずぅっと昔、自分の手で『殺し』ちゃったお母さんへの罪滅ぼし?」
 その言葉を聞いた瞬間、結城の顔からあらゆる表情が抜け落ちた。逆に華奢な体は目に見えて強張り、白い拳が軋むほど強く握り締められる。全身でそれ以上は踏み込んでくるな、と主張する結城に笑いかけ、流河は硝子玉のような漆黒の瞳を覗き込んだ。
 高揚する精神さえ自覚しながら。
「めずらしいよね。……いや、ひょっとしたらありがちなのかな? 『一家心中』で一人だけ生き残った子供が、こうやって自分の手で拳銃ぶっ放すような後ろぐらい仕事につくなんて」
「…………黙れ」
「まあ、逆にそれが原因になるってことも考えられるしね。死にたくなかった子供が無我夢中で銃を取って、自分を撃とうとした母親に反射的に発砲しちゃった、なんて泣かせる話じゃない?」
「黙れ」
「当時の警察もさぞ困っただろうね。なんてったってあんたの父親は現役の警察官だったんだから。それがよりにもよって一家心中、なんてスキャンダル以外の何ものでもないだろうし。しかも一人だけ生き残った子供が……」
「黙れっ!!」
 古めかしい畳がどんっ、と鳴った。手の皮が擦り剥けるほどの力で畳を殴り、漆黒の双眸に激しい光を揺らめかせて、結城が口をつぐんだ流河に突き刺すような視線を向ける。その表情は手負いの獣のようだった。うかつに手を出し、癒えない傷跡へ触れようものなら、その研ぎ澄まされた牙で一瞬のうちに食い殺されてしまうだろう。そう思わせるだけの鋭さをまとい、結城は荒い呼吸を繰り返しながら流河を睨みつけた。
「黙れっ!! 黙れ黙れ黙れっ、それ以上言うなっ!! そんなことはお前にっ……人を『玩具』としてしか見てないお前にっ、言われるまでもなくわかってるんだ!!」
 流河の浮かべた『笑顔』がふっと剥がれ、一瞬だけ隠されていた素の顔が覗いた。滅多に見ることの出来ないめずらしい表情だったが、激情を押さえるのに精一杯な結城はそれに気づかない。ギッと強く奥歯を噛み締め、込み上げてくる吐き気と怒りを何とかしてやり過ごそうとしている。
「恩返しも、罪滅ぼしも、おれの犯した罪も、昔のことも全部関係ない。おれには守りたいものがある。大切で大切で、なにがあっても絶対に失くしたくないものがあるんだ。人を人とも思ってない、退屈な人生を紛らすための『玩具』としか見てないお前に……っ」
 荒い呼吸音が唇から漏れる。握り締めた拳が震える。傷はこんなにも深く、強く、長い時経った今も薄れずに結城の心身を苛む。
 犯した罪を忘れるなと。
「そんな風に、すべてわかったような口をきかれる筋合はないっ!!」
 ふいに強い風が吹き抜け、うつむいた結城の黒髪を軽くなびかせた。
「おれは……っ」
 それを合図としたように静寂が落ち、汗ばんだ全身を風が優しく撫でていった。強すぎた激情を柔らかく冷ますように。
「…………ゆーきちゃんはさ」
 ややあって零された流河の呟きは、結城の気のせいでなければどこか優しげだった。
「ゆーきちゃんはさ、かわいそうだよね」
「……っな」
「かわいそうだよ。傷を乗り越えられるほど強くないくせに、壊れちゃえるほど弱くないなんて拷問じゃない? いっそどっちかだったら楽だったろうにね?」
「…………」
「だから」
 そこで一度言葉を切り、流河は『いつも通り』の無邪気な微笑を浮かべてみせた。猫のような瞳が楽しげに細められ、わずかな月明かりを反射して金色に煌く。
「オレ、ゆーきちゃんの傍にいるのが楽しくてしょーがないんだよね。ゆーきちゃんが壊れないでお仕事続けてられるのか、オレ個人的にすっごく興味あるしー」
 それは相棒に向けるのにふさわしい言葉ではなかったが、結城はふっと短く息を吐き、握った拳をほどきながら流河を見上げた。
「言っとくけどな、流河」
「ん?」
「おれはお前の、玩具じゃない」
「ん、知ってるよ」
「お前の思う通りになると思うなよ」
「そうじゃなきゃ面白くないっしょ?」
 まるで揺るがない笑顔を見つめ、形の良い眉をきつくひそめると、結城は相棒から視線をそむけて低く呟いた。おれはお前なんか大嫌いだ、と。






    


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