05 痛みと悲しみ


 


 かすかな雨音が耳に届き、結城は今日だけで何度目か知れない溜息を吐いた。
 昨日は殺意を覚えるほどに照っていた太陽も、今日は厚い雲の奥に隠れてしまって出てくる気配を見せない。日差しがない分気温が下がってもよさそうなものだが、雨戸をきっちりと閉めきり、雨と共に吹き込んでくる風を締め出してしまったせいで、室内にこもった空気は絡みつくような湿気を帯びて淀んでいた。座っているだけでも薄く汗ばんでくるほどだ。
「大丈夫? ゆーきちゃん」
「…………何がだ?」
 きつく眉をひそめ、結城は目の前に座っている相棒に針のような視線を向けた。お世辞にも友好的とは言えない眼差しだが、流河はどこまでも楽しげな様子で「だってー」と呟く。
「ゆーきちゃん、雨苦手っしょ?」
「……おれはお前に雨が苦手だなんて言った覚えはないんだが?」
「言われなくてもわかるよ。ゆーきちゃん、雨降ると眉間に皺寄せて溜息ばっかり吐くもんね。土砂降りの雨の日なんか耳ふさいでうずくまっちゃってさー」
 かわいいよねぇ、という揶揄のこもった流河の声に、結城は何も言い返さず無言で眼差しをそらした。言い返しても相手を喜ばせるだけだ、と悟ったのかもしれない。
 確かに結城は雨が嫌いだった。普通に生活する分には何ともないが、ふと気を抜いた瞬間、雨音と共に耐えがたい『痛み』がフラッシュバックしてくるからだ。そういう時は耳をふさぎ、部屋の隅で体を縮め、抉られるような痛みと雨音が行き過ぎてくれるのを待つしかない。従順な囚人のように歯を食いしばり、きつく拳を握り締めて耐えることしか出来ない。その痛みは犯した『罪』に対する『罰』なのだから。
 癒えない傷の存在を思い知らされ、憂鬱な思いを抱えながら嘆息すると、結城はにこにこと笑っている流河に視線を戻した。
「……つーか、そんなことはどうでもいいんだよ、今は。仕事中だってわかってんのか?」
「いやぁ、わかってるけどさ。ただほら、ゆーきちゃん突っつくのってオレの生きがいだから」
「とりあえず、今お前を射殺してもそれって正当防衛だよな」
「いやん、ひどいわゆーきちゃんっ! …………っていうかさ、そんなことしたらあっちで寝てるメグちゃんが起きちゃうよ? いいの?」
 結城の顔がふっと曇り、黒い瞳の中に自嘲の色が揺らめいた。
 直接命を狙われたのは初めてだったのか、間近で見てしまった流河の凶行がショックだったのか、恵は二人のいる部屋からふすま一枚隔てた場所で眠っていた。この近さなら守るのに支障はないとはいえ、恵の怯えた表情を思い出すと胸の奥が重くなる。
「……お前な。お前もちょっとは責任感じろよ」
「えー? これでもオレってばブロークンハートなんだけど。あんなかわいいお姫さまを怯えさせちゃうなんてオレもまだまだかなー」
「ああそうかよ。もういい、お前に責任感じろ、なんて言ったおれが馬鹿だった」
 おざなりに手を振り、反省の色が見られない相棒をきつく睨むと、結城は表情を改めて座布団の上に座りなおした。
「……で、話を仕事に戻すぞ」
「りょーかい。――――昨日のやつらを誰が雇ったか、だろ?」
「ああ。まあ、あいつらを雇ったのは十中八九あの奥さんだろうけどな」
 秋吉の敷地面積は広大だが、だからと言って公園のように誰もが出入り出来るわけではない。何らかの方法で壁を乗り越え、庭園の一角に侵入出来ても、敷地内に完備されたセキュリティ・システムによってあっという間に見つかってしまう。誰かが手引きしたと考えるのは当然だった。
「ま、見たところ奥さんがこの家の実権握ってるっぽいしね。男二人くらい、誰にも知られずに侵入させるなんてお茶の子さいさいってやつ?」
「だろうな。……でも、だとするとひとつだけ気になることがある」
「んー?」
「あいつら、おれたちが『同業者』だって知ってただろ」
 軽く眉を寄せた結城を見やり、流河は無邪気な表情でああなるほど、と手を打った。
「奥さんは知らないはずだもんね。……一応、表向きは」
「ああ。となると、可能性はふたつ」
 結城の表情がどんどん嫌そうなものになっていく。自分の考えを否定したくてたまらない、と言わんばかりの表情を見つめ、流河はわざとらしい動作で小首を傾げてみせた。
「ひとつ目は?」
「ひとつ目は、あの奥さんが『裏』の人間に調べさせたか何かして、最初からおれたちの正体を知ったっていう可能性だ。『裏』の社会はけっこう狭いからな。ちょっとでも動きがあるとすぐに知られる」
「でも、それにしてはあいつら雑魚っぽかったよねぇ。多分、オレたちを脅してこの仕事から手を引かせろ、としか言われてなかったはずなのに、メグちゃんが出てきた途端あの子のこと撃とうとしたし」
「チャンスがあればメグを殺せ、と言われてた可能性もある。………だけど、確かにそれにしては手口がしょぼいんだよな。依頼人のいる家の中で発砲するなんてプロのやり方とは思えない」
 結城の視線が険しさを含んだ。暗にもう一回暴走したらただじゃおかないからな、と訴えてくる相棒の視線に、流河は反省しているともふざけているとも取れる仕草で肩をすくめる。
「んじゃ、ふたつ目は?」
「…………確認しとくが、あいつらを雇ったのは間違いなくあの奥さんだ。ただ、奥さんが初めから全部知っていたわけじゃないとしたら、多分」
 そこで一度言葉を切り、結城は痛みを堪えるように漆黒の瞳を細めた。
「誰かが、奥さんにおれたちの『正体』を教えた、ってことになる」
「今のところその線が強い感じだよねー。どうする? 一応『調べて』もらっとく?」
「そうした方がよさそうだな。そろそろ前当主の死因についても『情報』が届くはずだ、折り返しで慧(けい)に依頼するか」
 馴染みの『何でも屋』兼『情報屋』の名を呟き、結城は閉めきられた雨戸へ眼差しを投げた。かすかに響いてくる雨音を捉え、それに挑むようにして目線を強める。
「―――死因の方も、想像がついてるって言えばついてるんだけどな」
「確かにねぇ。だっていくらなんでも……」
 そこで何かに気づいたように口をつぐみ、流河は物言いたな目で前に座っている結城を見た。結城も仕方なさそうな表情でひとつ頷く。わかってるよ、というように。
「…………じゃ、ちょっとトイレでも借りてくるかな」
「いやんゆーきちゃん、美形はトイレなんていかないものなのに!」
「黙れ。生理現象のない人類がこの世の中にいてたまるか」
 どこか芝居がかった口調で言葉を交わし合い、座っていた座布団から腰を浮かせると、結城は素早い動作で廊下に続くふすまを開け放った。
 ぱたぱた、というかすかな足音を残し、小さな影が慌てたように廊下の角を曲がっていく。小動物を思わせるすばしっこい動きだったが、特に急ぐことなくその後を追いかけ、結城は縁側に面した客間の前で足を止めた。
 深すぎる色合いの瞳がそっと笑う。
「…………メグ」
 部屋の中で体を揺らす気配がした。わかりやすいな、と口の中だけで呟き、結城はふすまを見つめたままで言葉を続ける。
「メグ。もう大丈夫なのか?」
「…………」
「ああ、返事したくなければ無理にしなくてもいいから、そのままで聞いててくれ」
 廊下に立っていたのは結城ひとりだけだったが、もし第三者がいたら頬を赤らめずにはいられなかっただろう。それほど結城の表情は優しく、淡く、日差しが煙るように綺麗なものだった。優しすぎて儚くさえ見えてしまうほどに。
「怖い思いをさせて、ごめんな」
「…………っ」
「メグを守るために来たのに。あんなに怖い思いをさせてごめんな。もうあんな思いはさせないって約束するから」
「ちが………っ」
 結城がそっと頭を下げた瞬間、閉ざされていた勢いよくふすまが開き、中からワンピースをまとった少女が飛び出してきた。目を丸くする結城を見上げ、恵は脇に下ろした拳をぎゅっと握り締める。
「違う……! 結城くんが謝ることなんてひとつもないの! 謝るのは私の方だから……っ」
「――メグ?」
「わた……私のせいで、結城くんが怪我っ、したでしょ!? 流河くんが怒ったのもそのせいで……!」
「……メグ、それは」
「ごめんなさいっ、ごめんなさいごめんなさいっ、ごめんなさい!! もうこんなことないようにするから、だから……っ!」
 恵の表情は痛いほどに真剣だった。部屋で寝込んでいたのは怯えのためではなく、自分のせいで結城に怪我をさせてしまった、という自責の念のためなのだろう。結城は虚をつかれたように瞳を瞬かせたが、やがて怜悧な面差しをふわりと和ませ、目に涙を溜めている少女の頭を優しく撫でた。
「違うよ、メグ」
「結城く……」
「おれが怪我したのも、あいつがキレたのも、全部メグのせいじゃない」
「……でも」
「でもじゃない。何にも悪いことしてないのに謝ったら駄目だ。メグはおれたちのクライアントなんだから、胸張って『私をちゃんと守りなさい』って言ってればいいんだよ」
 冗談めかして告げた結城を見上げ、恵はほんの一瞬だけ瞳を瞬かせたが、すぐに白くなめらかな頬をぷっと膨らませてみせた。
「……結城くん、私が生意気だって言いたいんでしょう?」
「誰もそんなこと言ってないだろ。でもまあ、しゅんとしてるよりは威勢が良い方が見てて楽しいけどな」
 手触りのよい黒髪をくしゃりとかき回し、結城は恵の顔を覗き込むようにして明るく笑った。それを見た恵がさっと頬を紅潮させる。
「……結城くんは、優しいのね」
 どこか悔しげな動作で結城の手をはらい、小さな顎を挑戦的に持ち上げると、恵は年齢にふさわしくない表情で涙をぬぐってみせた。黒目勝ちな双眸が深い色を湛え、どこまでもまっすぐに笑っている結城を見やる。笑顔の奥を透かし見ようとするように。
「こういうお仕事をしてる人なのに、すごく優しい」
「――――そうか?」
「うん。そんなに……」
 小さな手が伸ばされ、ためらいがちに結城の頬へ触れた。結城はほんのわずかに体を揺らしたが、文句を言うことなく恵の好きにさせてやる。
「そんなに、何だ?」
「……そんなに、いつも痛そうな顔してるのに」
 結城の目がふっと見開かれ、冷たく整った面差しに驚くほどの『幼さ』が滲んだ。初めて目にする無防備な顔に、恵は不安をありありと浮かべた表情で瞳を揺らす。なにかよくないことを言ってしまっただろうか、と。
 それを見やって薄く笑い、恵の髪をやや乱暴に撫でてやると、結城は不思議なほど透明感のある笑顔で首を傾げた。
「そんなに、痛そうな顔してるか?」
「…………うん」
「そっか。それじゃあ心配にもなるよな。ごめん」
「謝ることじゃ……っ」
「わかってる。でも、ごめんな」
 恵は小さく唇を噛んだ。まだ十二歳の自分に出来ることなどたかが知れているが、この綺麗な人が抱えている痛みを思い、それを軽くしてやることも出来ない自分にひどく腹が立つ。それを見やって結城が笑った。
「ありがとう」
 それが何に対しての礼なのかわからないまま、恵はワンピースの裾を握り締めるようにして小さく頷いた。






    


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