06 幕間、それは壊れない人形





「……あれ?」
 するするとふすまを開け、忍び足で廊下に滑り出た流河は、壁にもたれている人影に気づいて茶色の目を丸くした。
 秋吉家で迎える二回目の夜。昼間の雨も夕方頃には上がり、開け放たれた雨戸から涼しい風が吹き込む中、寝巻き姿の少女が挑みかかるような目で流河を見上げていた。黒目がちの大きな目を見下ろし、流河は苦笑しながら指先で頬を掻く。
「なんか廊下に人の気配があるなー、と思ったらメグちゃんか。……んーとね、メグちゃん? メグちゃんの年を考えると、お兄さんたちに夜這いかけるにはちょぉーっと早い気がするよ? いやあと七、八年経ってからからお兄さん大歓迎っていうかむしろこっちからお願いしたい気がしまくりなんだけど……」
「あのね、流河くん」
 流河の目をまっすぐに見つめたまま、恵はぴしゃりと響く声で相手の台詞をさえぎった。ふざけた会話につき合う気はない、と雄弁に告げてくる少女の態度に、流河は降参の意を示して軽く両手を上げる。
「…………はい、何でございましょうお姫さま」
「今日はね。流河くんにも、謝っておかなきゃと思って来たの」
「謝る?」
「そう。昼間、結城くんには謝ったけど、流河くんには何も言ってなかったから。……流河くんが出てきてくれてよかったわ」
 縁側からおぼろげな月明かりが差し込み、恵の表情を柔らかく照らし出していく。ピンと張りつめた表情を浮かべ、少女らしく華奢な背中を壁から離すと、恵は流河に向かって丁寧に頭を下げてみせた。
「昨日は、ごめんなさい。結城くんは私のせいじゃないって言ってくれたけど……でも、私が出て行ったせいで結城くんに怪我させちゃって……」
「……うん?」
「流河くんが怒ったのは」
 下げていた頭を勢いよく持ち上げ、恵は必死な表情で流河の瞳を見つめた。
「大切な友達が……結城くんが、怪我を、したからでしょ……?」
「……へ?」
 茶色の瞳が何度か瞬き、不思議そうな光を湛えて恵を見下ろした。何を言われたか理解出来ない、というように。
 予想外の反応に恵の方が狼狽したが、ややあって流河は小さく噴き出し、手近な壁にぶつかるようにして背中を預けた。そのままずるずると座り込み、膝の間に顔を埋めて楽しげな笑い声を響かせる。憮然としたのは恵である。
「………流河くん。私、これでも真面目に謝ったんだけど?」
「あーっ、や、ごめんっ……ちょっと予想外の不意打ちで……っ」
「意味がわからないわよ、流河くん」
 恵の抗議は正当性にあふれるものだったが、ここに結城がいれば眉間に皺を寄せながら忠告してくれただろう。こいつに日本語は通じないんだ、と。
 ますます顔をしかめる恵の前で、「あーそっかぁ、ゆーきちゃんってば大切な友達かぁ」という意味不明な納得のし方をしつつ、流河は目尻の涙をぬぐいながら伏せていた顔を持ち上げた。茶色の瞳が月明かりを弾いて金色に輝く。
 なぜか背筋を冷たいものが走りぬけ、無意識のまま半歩後ろに下がった恵に、流河はどこまでも人懐こい表情で隣を指差してみせた。
「んじゃまぁ、説明するから座んない? 立ったままじゃ色々あれでしょ?」
「…………」
「ああ大丈夫大丈夫! お兄さんこれでも紳士だから! 十六歳以下の女の子には間違っても手を出しません、神さまに誓って!!」
 恵の怯えに気づいていないのか、気づいていてあえて知らないふりをしているのか、流河の態度は常と変わらずふざけたものだった。ふっと肩から力を抜き、恵は膝を折って流河の隣に座り込む。あの冷たい目は気のせいだったんだろうか、と思いながら。
「……っていうことは、十六歳以上の女の子には手を出すの?」
「いやぁ、それは場合によりにけり、かな? だって据え膳食わぬは男の恥っていうしー」
「流河くんが言うとそこはかとなく胡散臭いわね」
「あっ、ひどい! ゆーきちゃんと同じこと言う!!」
 オレ泣いちゃうから、と言って廊下に打ち伏す姿も、わざとらしく長身をくねらせる様も、この二日間で恵が見慣れた『いつも通り』の流河だった。その隣にはいつも結城の姿があり、慣れた態度で相棒の悪ふざけをあしらっていたため、ごく自然に二人は仲の良い友人同士だと思っていたのだが。
「…………ねぇ、流河くん」
「あ、今自然にオレのかわいそうな人妻ポーズ無視したでしょっ………じゃなくて、なになに?」
「流河くんは……その、結城くんと」
「ゆーきちゃんと?」
「仲のいい、友達じゃないの?」
 わずかな不安を湛えた恵の言葉に、流河はんー、と曖昧な態度で首を傾げてみせた。金に輝く瞳がすっと流れ、淡い月明かりの滲む外へと向けられる。
「ゆーきちゃんはねぇ、オレの大切な相棒だよ」
「……ホント?」
「そっ、大切な大切なパートナー」
 その言葉に深い安堵の息を吐き、笑みを作りながら流河の横顔を見やった瞬間、恵は全身を抱きすくめる冷気を感じて表情を強張らせた。
 流河の横顔は笑っていた。玩具を見つけた子供のように。禍々しいほど純粋な赤子のように。
「メグちゃんはさ、『死神憑き』っていって、何のことだかわかる?」
「…………え?」
「やっぱ知らないよねー。これって昔のオレのあだ名なんだけど、裏の世界では結構有名だったわけよ。関わる人間がみんな不幸な死に方をしていく、傍にいるだけで不幸になる、気に入られた人間はどんなに長くても半年以上生きることが出来ない……ってね」
「…………」
 大きく目を見張った恵に構わず、流河はどこか楽しげに弾んだ声で言葉を続けた。
「そういう星に下に生まれちゃったのか、オレってば『人間運』っての? それがとことんなくてさー。なんか小さい頃から関わりの深い人が次々と死んでくわけ。……まあ、裏の世界で人に言えないような仕事してる一家だったし、一般人よりは死に近いところで暮らしてたからしょーがないのかもしれないけど」
「…………死んでく、って、みんな?」
「そ、みんな。でもさ、その中でゆーきちゃんだけは『壊れ』なかったんだよね」
 流河の表情が何よりも嬉しそうに笑み崩れた。それだけを聞けば純粋な『喜び』の言葉だったが、恵の鋭敏な感覚が内部にひそむ『狂気』を感じ取ってしまい、反射的に隣の流河から距離を取る。
「壊れなかった……? 結城くんが?」
「うん、壊れなかった。それどころかゆーきちゃんと会った途端、オレの周囲で頻発してた不幸な事故がぱったり止んでさ。いやぁ、あれはびっくりしたね。オレにとり憑いた強力な死神に勝てるヤツがいたのかー、って」
 だから今は安心だよん、とふざけた口調でつけ足し、流河は月光をさえぎるようにして片手をかざした。唇がひややかな笑みを形作る。
「だからさ、オレ、ゆーきちゃんにすっごく興味があるんだよね。一緒にいると退屈しないっていうか」
「…………」
「まーつまり、どこまでゆーきちゃんが『壊れ』ないで行けるのか、元『死神憑き』としては多大な興味があるわけよ。………だから、他のヤツが壊そうとするのは許せないんだよね」
 流河の口調がぞっとするような冷たさを含んだ。その言葉も、口調も、表情も、結城を独立した一人の『人間』として捉えているものではない。そこには生き物に向ける『温もり』さえも宿っていない。
 それは子供が玩具に対して抱く『執着心』だった。
「……結城は大切な大切な、オレのパートナーだからね」
 まとわりついてくる冷気の存在を感じつつ、恵はそうか、と胸中に呟きを落とした。恵はまだ十二歳の子供だったが、生まれた時から大人たちに囲まれて育ったため、同い年の少年少女と比べてかなり研ぎ澄まされた感覚を持っている。流河の思いを漠然と理解してしまうほどに。
「流河くんは……」
「うん?」
「流河くんは。何ていうか、お人形を欲しがる、子供みたいね」
 パチパチ、と色素の薄い瞳をしばたたかせ、流河はどこか芝居がかった仕草で「お人形?」と繰り返した。
「そう、お人形。丈夫で、叩いてもぶつけても壊れなくて、綺麗で、どこにもいかないお人形。私ももっとちっちゃい頃、どんな風に扱っても壊れないお人形がほしかったもの。……私、けっこう乱暴で、もらった玩具をすぐ壊しちゃうから」
 小さな膝を抱え、過去を懐かしむような表情を作ると、恵は流河に綺麗な夜空色の瞳を向けた。途切れがちな言葉がぽつりぽつりと空気を揺らす。
「流河くんの言ってることは、つまりそういうことでしょ? …………自分の傍にいても壊れない、貴重なお人形がほしいって」
「…………」
「結城くんは、流河くんにとって……お人形なの? それを壊そうとしたから、昨日の昼間はあんなに怒ったの?」
 それは子供だからこそ許される無遠慮な問いだった。
 流河は無言で恵を見ていたが、やがて端正な口元を明るい笑みに綻ばせ、片手でゆるく波打った黒髪をぐしゃぐしゃにかき回した。きゃっ、という可愛らしい悲鳴が上がり、廊下に落ちかかった夜の静寂を柔らかく引き裂いていく。
 その仕草こそが流河の答えだった。それ以上は何も言わず、言葉を重ねることもせず、ただ無邪気に首を傾げてにっこりと笑う。今日はここまでね、というように。
 それを持ち前の敏感さで感じ取り、恵は流河の手を振り払いながら眦を厳しくした。
「……頭を撫でる仕草、結城くんはもっと優しかったわよ」
「えぇっ、ゆーきちゃんに頭撫でてもらったの、メグちゃんっ?」
「そうよ。結城くんはこんなに乱暴に撫でたりしなかったんだから」
 つん、とすました仕草で顎をそらしつつ、恵は流河の隣からひどく身軽に立ち上がった。暗がりの中に長い髪がふわりと揺れる。
「……それじゃあ、私はもうお部屋に帰るわ。夜遅くにごめんなさい。………お話してもらえて嬉しかった」
「いえいえ、これくらいお安い御用です。あ、じゃあお部屋まで送らなきゃね」
「え? ……隣の部屋なのに?」
「隣の部屋でも! 何てたってメグちゃんはオレたちのクライアントなんだから」
 恵は呆れたように溜息を吐いたが、ほらほら、と背を押してくる手に逆らわず、流河に連れられて自分の部屋へと足を向けた。今だ胸を刺す冷気の存在を感じながら。
 恵は知らない。流河が出てきた部屋の隣で、結城がきつく眉を寄せながらこの会話を聞いていたことを。膝を抱き、片方の手に顔を埋め、何かを堪えるようにして息を詰めていたことを。激しい『痛み』を必死に押し留めていたことを。
 最後の最後まで知らないまま、恵は自室のふすまを開き、流河に軽く手を振ってからそれを閉めた。






    


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