08 そして舞台の幕は下りる


 


 結城の声は氷のように冷たく響くものだった。
「佳代さんはじきに到着する警察に逮捕されます。これ以上、彼女にメグの命が脅かされることはないでしょう。……すべて貴女の望んだ通りになりましたか、千津江さん?」
「…………緒方さん」
 隠れていても無駄だと悟ったのか、見つかった時点が腹をくくったのか、千津江がゆっくりした動作で廊下の角から姿を現した。華やかな面差しを綻ばせ、全身で安堵したと主張しながら溜息を漏らす。定められた芝居をこなす役者のように。
「……緒方さん、本当にどうもありがとうございました。もう、緒方さんと流河さんにはお礼の申しようもありません。これで私と恵は安心して過ごしていけます」
「いいえ、こちらも仕事ですから。……ですがひとつだけ、契約を終える前にはっきりさせておきたいことがあるんです」
「はい?」
「佳代さんにおれたちがディテクティブ・コントラクターだと……いえ、そこまではっきりとは言ってないにせよ、佳代さんの罪を暴くために雇った人間だと教えたのは、千津江さん。貴女ですね」
 千津江の反応は予想と寸分違わぬものだった。虚をつかれたように目を瞬かせ、何を言われたかわからない、とばかりに首を傾げる。
「えぇと、何を……」
「ああ、決まりきったお芝居はもういいですから。佳代さんの芝居につきあった挙句、貴女にまでしらばっくれられても困ります」
 千津江の言葉をあっさりとさえぎり、結城はひどく面倒くさそうな表情で髪をかき上げた。
「別に、貴女のしたことは犯罪でも何でもありません。貴女がメグの命を守ろうとしたのは事実でしょうから。……それが本当にメグの命を案じてのことだったのか、メグの後見人としてこの家を手に入れるためだったのかは知りませんし、知りたいとも思いませんが」
「…………」
「千津江さん。貴女は佳代さんに尻尾を出させ、何とかしてこの家から追い出してしまいたかったんじゃありませんか? いくら財産をすべて譲られ、ゆくゆくはこの家を継ぐべき存在だと言っても、メグはまだ十二歳になったばかりの子供だ。メグが成人するまでは今まで通り、佳代さんがこの家を取り仕切っていくことになる。……貴女は、それをふせぎたかったんじゃないですか? だからおれたちを雇ってメグを守らせるだけじゃなく、わざわざおれたちの正体を佳代さんに教え、短絡的な行動に出るように仕向けたんじゃないですか?」
 ためらいのない口調で問い詰めながら、結城は少しずつ重くなっていく気分をもてあまし、相手に悟られないように溜息を押し殺した。顔色を失くしていく千津江に視線を向け、脇に下ろした拳を握り締める。
 なぜだかはわからないが、言葉を重ねていけばいくほどひどく腹が立った。理性の壁がわずかに揺れ、凶暴な思いが外に漏れ出してしまうほどに。
「千津江さん。貴女は……メグの継ぐ、遺産が欲しかっただけなんですか?」
「…………」
「メグは純粋に貴女を慕っています。なのに、貴女は自分のためにそのメグを危険にさらしたんですか? メグは貴女のことを唯一の味方だと信じて、疑うこともなく慕っているのに、貴女は佳代さんを暴走させてメグを危険な目に合わせたんですか? ――――貴女の薄汚い欲のために、あんなに小さな子を裏切って何とも思わないんですか!?」
「だって仕方ないじゃないっ!!」
 耳障りな金切り声が空気を揺らした。両目を炎のように輝かせ、綺麗に結い上げた髪を振り乱し、千津江がすぐ傍にある結城の瞳を睨み上げる。苛立ちを押さえきれない子供のように。
「なんで……なんで貴方にそんなこと言われなきゃならないんですか!? そりゃあ貴方たちのことをあの女に教えて、そのせいでメグが危なくなるなんて予想外でしたけど……っ、でも仕方ないでしょう!? あの女がいたら私の方が家を追い出されてしまうんだから!!」
「―――追い出される?」
「そうよっ!」 
 千津江の表情が純粋な憎悪に彩られ、両目がここにはいない『あの女』を睨みつけるように細められた。
「あの女……兄に取り入ってまんまと後妻におさまったあの女は、自分よりも恵に慕われてる私のことが嫌いなのよ。だから恵が成人する前に、あの手この手を使って兄の妹で私を追い出そうとしてるの。……冗談じゃないわよ。何で私があんな女に追い出されなきゃならないの? 兄の妹であるこの私が、どうして後からきたあんな女に追い出されなきゃならないのよっ!」
「………だから、何とかして佳代さんの罪を立証しようと躍起になってたんですか? 逆にあの人を追い出すために?」
「ええそうよ、それの何が悪いっていうの! 恵の後見人になるのは私よ! あの尻軽女じゃない、私なんだからっ!! 絶対に渡さないわ、あんな女なんかに……っ、じゃなきゃ今まで何のために恵を可愛がってきたかわからないじゃない、せっかくめぐってきたチャンスなのにっ、それを………」
 そこで千津江が言葉を切ったのは、目の前に立つ青年の眼光に気圧され、無意識のうちに体が強張ったためだった。背筋に言い知れない悪寒が走り、千津江は無意識のうちに一歩足を引く。
 漆黒の双眸に冷たすぎる光が閃いた。
「―――おれはただ雇われただけの人間だ。この家の中のことに一々口出ししようとは思わないし、結果だけみればあなたの行動によってメグの危険が取り除かれたとも言える」
「…………」
「それでも、貴女がやったことは結局ただの保身だ。メグのためでも何でもない。………子供は、大人の玩具じゃない」
 握り締めた拳がぎり、と小さく音を立て、結城は自分が驚くほど感情的になっていることを知った。込み上げてくる激情が呼吸をさまたげ、胸の奥で激しい警鐘を鳴らす。ふいに視界が大きくゆがみ、絡みつくように柔らかな声が耳元で響いた。結城、と。
「子供のためだの、守るためだのと言って、大人が子供を好き勝手に扱っていいわけがない。愛情という言葉を隠れ蓑にして、子供の意思を無視して、大人が自分のエゴのために犠牲にしていいはずがない。あんたたちにはわからないだろうが、子供は……」
 声が少しずつ大きくなっていく。警鐘と耳鳴りがひどくなっていく。結城はその先を覚えていた。結城、という優しい声も、抱きしめるために伸ばされた指先も、いつもと変わらない木漏れ日のような笑顔も。
 自分に向けられた銃口も。
「子供は大人の、所有物じゃないんだ……っ」
 切れるほど強く唇を噛み締め、その痛みによってまとわりつく幻覚を払いのけると、結城は真っ青になって立ち尽くしている千津江に強い視線を向けた。力を込めすぎたためか、銃弾によって傷ついた右腕がじくじくと痛み、どこか曖昧にかすむ意識を浅く刺していく。それを無視してさらに力を込め、結城はおぼつかない呼吸を整えながら言葉を続けた。
 自分さえ傷つける断罪の言葉を。
「貴女のしたことは、この国の法律で裁けるようなことじゃない。佳代さんが捕まり、その後この家を取り仕切っていくのは貴女かもしれない。………でも。それでも、すべてを選ぶのは貴女じゃない。メグだ」
「…………」
「それを覚えておいた方がいい。――――絶対に、貴女の思う通りにはならない。絶対にだ」
 切りつけるように断言し、もう興味は失せた、とばかりに顔をそむけると、結城は千津江の横をすり抜けて廊下を歩き出した。背後の千津江になど一瞥もくれず、ただまっすぐに前だけを見据えて歩いていく。
 場違いなほど穏やかな風が吹き、どこか遠くから蝉の鳴き声を拾ってきた。落ちた静けさを埋めるように。
「――――ごめん、な」
 ふいに穏やかな声が漏らされ、蝉の声だけが響く空間をそっと揺らした。角を曲がったところで立ち止まり、厳しかった表情をわずかにゆるめると、結城は幼子をあやすようにして小さく呟く。視線は前だけに固定したまま。
「ごめんな。許してくれとは言わないし、言えない」
「…………」
「でも、お願いだから謝らせてほしい。ごめんな」
 形のいい唇が泣き笑いの形にゆがんだ。
「ごめんな。……メグ」
 無言で大きく首を振り、恵は壁にもたれかかったまま大きくうつむいた。小さな手がスカートの裾を握り締め、夏らしく薄い生地にくしゃりと皺を作る。結城は痛みを堪えるようにして瞳を細めた。
「………ごめんな、メグ。本当にごめん」
 千津江の思惑に目をつむり、警察に通報した時点ですべてを終わらせていれば、恵は叔母に裏切られたことを知らずに暮らしていくことが出来ただろう。辛いだけの事実から目をそむけ、叔母に愛されていると信じ込み、表面的な穏やかさを保ったまま生きていくことが出来ただろう。いずれ自分で気づいたかもしれないが、少なくともこんな形で事実を知り、幼い心に傷を負うことはなかったはずだ。
 結城の目がそっと伏せられる。
「メグも知った方がいいっていうのは……多分おれの、エゴだったんだろうな。おれはあの人を許せなかったから」
 本当にごめん、という結城の言葉に、恵はうつむいたままでもう一度首を振った。何度も何度も、それ以外の動作を忘れてしまったように。
「違う……っ、ゆうきくんの、せいじゃないっ」
「…………」
「結城くんはっ、何も悪いことしてない!」
「…………メグ」
「だから、結城くんがっ、謝ったりしちゃ駄目……っ」
「メグ」
「だからっ……」
 そこで一度鼻をすすり上げ、涙でぐしゃぐしゃになってしまった顔を上げると、恵はすぐ傍に立っている結城をまっすぐに見上げた。結城も漆黒の瞳で少女を見下ろす。
 幼い少女には耐えがたい事実だっただろうが、黒目勝ちの瞳には現実に対する絶望も、大人に対する不信感も、自分の家に対する嫌悪感も映ってはいなかった。このぶんなら持ち前の勝気さを発揮し、息苦しい家の中でも前を向いて歩いていけるだろう。誰もが憧れてやまない光の中で、背筋を伸ばしながら凛と生きていくことが出来るだろう。結城が強く願った通りに。
 ほっと安堵の息を吐いた瞬間、昨日と同じように恵の手が伸び、どこかためらいがちに結城の頬へと触れた。
「……結城くんが、そんなに痛そうな顔、することないの」
「メグ」
「ありがとう、結城くん」
 恵の表情が明るい笑みに綻んだ。
「ありがとう。守ってくれて」
 鼻の頭が赤くなり、瞼が腫れ、目尻には涙が溜まったままというひどい顔だったが、その笑顔は今まで見たどんな表情よりも晴れやかに映るものだった。夏の空に輝く太陽のように。日差しを弾いて煌く水面のように。
 暗がりを照らしていく光のように。
 ふっと小さく目を見張り、どこか困惑気味に目元をゆるめると、結城は少女につられるようにして微笑を零した。
「いや。………こちらこそ、ありがとう。メグ」
 それは木漏れ日のように淡く優しい、心の底からの微笑だった。






    


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